歌枕を訪ねて歩く、日本の旅。
□入選作発表
・俳句の部
・短歌の部
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「筑波山に登る歌一首
并せて短歌」 高橋連虫麻呂
草枕 旅の憂(う)けくを 慰(なぐさ)もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひはり)の
鳥羽の淡海(あふみ)も
秋風に 白波(しらなみ)立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂けくはやみぬ
(万葉集 九巻)
反歌
筑波嶺の裾廻(み)の田居に秋田刈る妹がり遣らむ
黄葉(もみち)手折らな
「筑波嶺に登りてカガヒせし日に作れる歌一首 并せて短歌」
鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ
かがふかがひに 人妻に 吾(あ)も交はらむ わが妻に
人も言問へ この山を うしはく神の 昔より
禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ
言(こと)もとがむな (万葉集 九巻)
反歌
男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れとほるとも
吾帰らめや
■七世紀までの「香取の海」沿岸には、各国からの人とモノで溢れ返り、多国籍由来の
古墳群が物語るように米国に似た華々しい国際都市国家郡が形成されていた。
「鹿島郡の苅野橋(かるののはし)にて、
大伴卿に別るる歌一首 并せて短歌」 高橋連虫麻呂
ことひ牛の 三宅の潟に さし向ふ 鹿島の崎に さ丹塗りの
小船を設(ま)け 玉纏(たままき)の 小梶繁貫き 夕潮の
満ちの湛(とど)みに 御船子(みふなこ)を あどもひ立てて
呼び立てて 御船出でなば 浜も狭(せ)に
後(おく)れ並(な)み居て
こいまろび 恋ひかも居らむ 足ずりし 音のみや泣かむ
海上(うなかみ)の その津を指して 君が榜ぎゆかば
(万葉集九巻)
反歌
海つ道(ぢ)の凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
■現在の霞ヶ浦。当時、香取の海といった。縄文時代からの
天然の静かな入り江で、 古墳時代からは新羅、高句麗、百済、
隋との交流が深く、沿岸には多くの国際感覚あふれる村や町が、
発展していった。そうした事態は、沿岸の無数に近い古墳群や、
そこから出土した国際感覚あふれる品々をみてみるだけで、
一目瞭然で了解できる 。
江戸時代、利根川を銚子へ流すようになって、ますます
水運は開けたが、最近、農業、工業用水取得のため水門
(堰)で海と香取の海を完全遮断した結果、霞ヶ浦は、
真水となり、それまで大量にとれていた蜆も絶滅するなど
自然環境は激変した。
当時の香取の海の入船、出船を見張るように、細い海路両側
に設けられていたのが、「鹿島神宮」と「香取神宮」である。
ちなみに、鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちの
おおかみ)。 香取神宮は、経津主大神(ふつぬしのおお
かみ)である。両神とも 共に出雲まで出向いて大国主神
を説得し、日本の国を平定へと導いた軍神である。この両
神が、奈良の春日大社の祭神として迎え入れられ、小高い
丘の上から都を見おろして、ある時は、睨みを利かして、でき
たてばかりの律令国家体制にもとづいた政治、文化を牽制。
今日まで見守ってきたのである。ある意味この両神こそが当
初から日本建国の立役者なのだ。
■古墳時代から七世紀にかけての香取の海
関連論文募集中
□鹿島郡の苅野橋 神栖町の神之池(ごうのいけ)から流れ出た
川が海路 (現利根川)に注ぐあたりに架かっていた橋か。
□大伴卿 大伴旅人。□三宅の潟 銚子市三宅町あたりの干潟。
□鹿島の崎 茨城県鹿島郡波崎町か。□海上 下総国海上郡。