現代アートと山水画。およびギリシャ悲劇の誕生。
     
Japanese Art. 美学あるいは反美学
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 美の原風景を訪ねて

淡海の海
夕浪千鳥汝が鳴けば 
心もしのに
いにしへ思ほゆ

「この一首さえあれば、日本はもう沈んで無くなっても良いじゃないか」といったのは、たしか新感覚派の横光利一だったか。

自分たちのことば、詩的言語、古言は、分析的な美学では掬いきれない時間とか、身体の深い底からの感動をわたしたちへ与えてくれることに驚く。もともと、わたしたちのことばに内在するロゴスを離れては、深い感動はおろか、他国の文化や、自国文化の理解にいたるまで困難になるのはあきらかだ。

中印の古典哲学、ヘーゲル美学やカントの批判美学、ハイデッガーなどドイツロマン派の美学の流れ、あるいはギリシャクラシックの美へのまなざしも大切だが、先づ、我々の先人のものにした古典や、いま普段につかっている生の言葉に聴き入り、ことばを深めて、そこから、わたしたちの具体的な身体・言語ルールに基づいた自然な美の学を、科学を哲学を立ち上げることがものごとの順序というものだろう。

結果、そのことのみが多様な言語文化のなか、互いに相対化されれば、どんな世界もローカル文化のひとつにすぎなくなるとはいへ、等身大かつ、独自の立場の自覚を生み出して、より深いレベルから他言語文化圏との相互理解を可能ならしめると信ずる。

所詮グローバルな世界標準美学のようなものは、面積を持たない点のごとく、具体的な身体性が欠如しており、そこは、誰もすむことのできない虚構の抽象世界でしかないはずだ。

 哥座(うたくら)は、「にほひ」・「俤」など印欧中にない、固有の先験的韻文空間を探険し、古くて、新しい独自の構造原理による美のプラットフォーム=座の確立を目指す。

「井の哲」以来、いまも笑いのとれない「浮世根問」でありつづける講釈美学。そして独自といわれながら、その実、西欧哲学を前鏡とし、うしろに中印思想・宗教の鏡を置いて、その合わせ鏡の間へ座り直して見える無限虚像を、絶対とみたてた「絶対矛盾的自己同一」など新公案や題目の域をでることができないでいた京都学派哲学・美学。さらにその後のやはり欧米の論理を前鏡としているにすぎない進歩的陣営からの批判論理。

もともと抽象概念による欧米学問用語というものは生活用語中心の日本の固有語では言い表しにくい。だから、中国語から借用した漢字、漢語で造語しなければならなかっただろう。とはいえ、肝心の真実を追い求める固有の視座をなくしたのでは全く意味をなさない。

そこには、自分たちの視座を失わない一工夫が必要であったはずなのだ。やがて、これら抽象観念は空洞化し、そこに妄想を生み、無惨な結末を迎えることになったのである。それは歴史の教えるところだ。哥座は、こうした一切から遠く離れ、身辺の具体的な日常宇宙のなかに等身大の美の原風景を訪ねたい。   
 

  歌座 美学研究所
   
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  Aesthetics  美学あるいは反美学      
 

「哥座(うたくら)」は、いったん文化装置の全てに強制終了をかけ、次に、無文字文化の視点を再起動する。そしてその原野から、日本美の謎の解明に挑む!

わたしたちが過去から未来へと引き継ぐべき至高のメッセージとなった
山水画を越えた山水画としての、等伯の「松林図屏風」。
そして芭蕉が命と引き換えにわたしたちへ残していった、俳諧を越えた俳諧
  旅に病で夢は枯野をかけ廻る
まづ
両者の美の構造と意味美の荒野へと降り立ち、古言の視点からとき解したい。
 
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  松林図屏風考 - 松林図に見える等伯以外の制作視点

  研究一 - 内なる言語の二重性
 
  研究二 - 哥座の「思考実験

  研究三 -ギリシャ悲劇とパラドックスの誕生

  研究四 -「ウツ(空)とウツツ(現) のラボラトリー
         森羅万象のからくりに迫る。


  本居宣長 - 「からごころ

  西田哲学 -「純粋経験」  「絶対矛盾的自己同一」全文

  茶の本 - 岡倉天心      古語復活論 - 折口信夫

  DANCE パッケージ - 哥座星座      徒然想起

 



UTAKURA ART WORKS-1                      


 

 
   
「非象」  Modern Art Exhibition  有 
       木綿布と自然石- 上野都美術館  


                           


松林図屏風考


○等伯の「松林図屏風」には、二つの視点と、それに基づく二つのこころの働きが対立しあいながら同時に存在している。一は、描写表現を旨とする山水画家の視点とそのこころの働きであり、第二は、これと正反対にあらゆる象徴化をも、表現描写をも受けつけずに、却って世界を受容していかんとする視点とその働きである。それは後で言うところの古言(フルコト)の無化力がはたらいている視点である。この二つの視点と二つのこころの働きとが合いまり、はじめて「松林図屏風」山水を越えた山水として日本絵画史上至高の作品となり得ているのである。そうして現在のわたしたちは無意識裡にその対立を感じとり、両視点が創りだす水面下の見えない緊迫のドラマに、いまもって、いや却って日本の原風景が求められているいまだからこそ、かぎりなく心ひきつけられているのである。しかし当時の最高水準の技量をもった山水画家ひとりの水墨画家として表現描写筆をあそこで止め得るだろうか?そして逆に、表現を無化する古言(フルコト)に身をゆだねていくことができるだろうか?この全くあい矛盾する二つのこころをひとりの心身でうけとめ、同時に働かせることは、絵描きの本能として不可能であったといえよう

もともと、等伯は以下でいうところの描写を本分とする「縁側言語」にもとづいた視点をもった作家である。彼には、雪舟いらいの山水画の伝統的視座から逸脱することは、原理的に不可能であったし、その視座からの逸脱の意図も自覚も必要もなかった。そのことは、「松林図屏風」前後の作品や記録をたどれば、あきらかであろう。

「松林図屏風」があの十分に無化された具足性に到達するには、何らかの理由で山水描写として未完の後に、(ともすれば、主題登場を待つ背景とも見えかねない一種の放置されたあやうさが、却って、場を開き、そこへ、わたくしたちや、あらゆる事象を呼び込み、あい照らしだしてくれるはたらきとして作用している)。ここでよしとする大胆なもうひとつの自覚的視座による空(ウツ)化を待つ必要があった。それには偶発的な無名の存在の関与、もうひとつの視点-「フルコトとしての第一言語」による視点をもった者の関与を設定するのが妥当である。(ここでは、後世に襖画を屏風画に仕立て直したという周辺技術の問題は除外している)。

ここからは想像でしかないが、そこへ介在した空(ウツ)の視点は、描写を旨とする画家のものではなかっただろう。たぶん素朴な視点、場をゆづることでトポスとすることに長けた名もない職人的な視点に、悪戯好きの神のまなざしが宿った結果のものであろう。

従来の美術批評で「松林図屏風」のあの奇跡的な作品の文脈をいくら丹念に追いもとめようとも、フルコトの開く美の原風景、個の表現描写をタブーとした無文字文化の視点から見ない限り、そこから、等伯一人の作という前提を崩していかない限り、あの作品の本質は非連続の裂け目として、今後もあらゆる分析を拒みつづけるに違いない。

 



美学のための覚書


  わたしたちの内なる言語の二重性について
  「フルコトとしての第一言語」と
ナリスマシとしての第二言語」
  その緩衝帯、縁側には中間言語が発生する


 「フルコトとしての第一言語」は
  無文字文化に根をもつ身体語や地名、古言、 主要な動詞、助動詞、助詞、形容詞等々。 それに現代日本語のフツウに文法といわれるほとんど全てのことばの機能にあたる。

○  「ナリスマシとしての第二言語」とは、
 文字導入後の漢意に相当する概念や考え方。また、哲学・芸術という明治以降の学問の新概念や主観、客観といういまや常識的になっている見方、 弁証法や分析、総合、演繹、帰納という論理。現代の、ポイエーシスとかクオリアという概念など。 それらにもとづくすべての発想をいう。

 ナナフシのように、外部の敵から身を守ろうと、ジブンでない存在へ擬態(ナリスマシ)する。そして、その ジブンでない他種のシステム言語に寄宿して、その視点からものごとを見ていこうとする言語。
  ナリスマシ言語・擬態語*)は敗戦の度、外来文化受容装置として新国家建設の名目の許で氾濫してきた。一回目の白村江の戦いにおける敗戦。二回目の明治開国(列強外圧による敗戦)。三度目の前回の敗戦。今また、高度情報技術を媒介にした医学、経済等の各専門分野の戦いにおいて。

*)言語学でいう擬態語と用法が違う。
*)どの言語文化圏においてもは文化的、政治的要因によって語彙の借用は起こってきた。ここでは、借りてきた異なるシステムから生じた視座が、どのように固有の視座と混在し、どのような混乱をきたして、どんな結果をうみだしているのか、そんな現在にいたるまでの状況をあらためて美術制作の作業現場から問題にしたい。この問題、とくに視座の問題を整理することで、美術においても、くらしにおいても、何かが見えてくるはずだ。



 両言語とも、日本語だが、それぞれの視座は、百八十度正反対に位置する。

 なお、第一言語と第二言の中間には、母屋と外世界との境界に設けられた縁側として機能する中間領域言語が存在する。心性の核は母屋にありながら、縁側にでて、外来文化を受容していく際のことばである。ここではその言語に付帯する視座も含めて、仮に
「縁側言語」と呼んでおく。ナリスマシ言語が母国の言語に包摂されていく過程で生じる言語だ。実際には、この縁側言語と、その視座が、有史以来のわたくしたちのコトバとモノとコトを現実的に規定してきた。その結果、一般的に、わが国で伝統芸術・芸能といわれるもののほとんどがその「縁側言語」に拠って成立している。和歌から水墨画や枯山水。茶の湯。生け花。能。西洋画や音楽。現代舞踏にいたるまで。これら世界に誇る芸術・芸能も、しかし、それはほとんどが、外の言語システムを借用して和式化したものであり、根本に、オリジナルシステムでない弱さをもっている。そのへんが、往々にして、床の間芸術。洋間芸術。(ここでは縁側芸術)。に堕してしまいやすい第一の原因であろうかとジブンは推測している。では、外部に影響されないオリジナルなシステムと、それにもとづく視座などあるのか、外来文化に依存するここでいう第二言語を除外してしまったら文化の体裁をなしたものなど、なにも無くなってしまうではないか。そう思われるところだが、実はしっかりと第一言語にもとづいた母屋の芸術は過去にもあったし、現実にも存在しているし、また、未来にも可能なのである。その辺は、視座を整理すれば、見えてくる。その前に、わたくしたちの言語システムの法則や特徴を西欧の言語学を引用せず、中国の道家思想に頼らず、なんらかのジブンたちジシンの方法で、即、美の法則として抽出しなければならない。

  古言(ふること)に根をもつ第一言語の視座
その視座は、主客を止揚したところの全体存在から生み出されてくる。そこにジブンの視点はあっても、それは一度全体に掬い取られてしまった視点である。

「はじめに古言(ふること) ありき」である。古言(ふること)はメディア・媒介項として、その本質である空(ウツ)へと、各々のモノ・コトやアナタ・ワレを組み込んでいく。同時に、当該の古言(ふること)を縁起とした出来事として、時間や空間をうみだしながら全体存在が現(ウツツ)世界として開き直してくる。この仕組みで時々刻々生成されていく共時性を伴った世界の視点。それが第一言語の視座である。

 両言語とも、日本語だが、それぞれの視座は、百八十度正反対に位置する。

  お月さまに登場してもらい
  分かり憎く?言い換えてみる。



世界受容の装置
古言(ふること)は原風景を映し出すブラウザである。
                 
 - 「ツキ」と「月」そして「MOON]



 たとえば、古言(ふること)に根をもつことばとして、「月」をとりあげてみる。
普段からナニゲに話している「ツ・キ」 ということばは、漢字の「月」と同一だという前提で使わている。が、ほんとうのところ「ツ・キ」 と「月」の指す意味内容、またその機能や用法は一致していないのではないだろうか。表現というキーワードに照らしてみると、両者は同一でないどころか、ことばの視座をめぐっては、正反対に位置していそうだ。

  漢字の「月」とは、その背景に権力の集中によって生みだされ、詩経時代あたりに完成をみた、中国独自に表現化された「月」である。漢字は、モノやイメージが形象化されただけのものではない。依代として、現神が宿るまでに昇華されており、そこには気がこめられ全ての字が神意に発する視座をもっている。わたしたちは、その「月」の字を輸入して「ツ・キ」 の当て字としてきた。

  ところで、微細な感覚なので見逃しやすいが、「月」という漢字をつかって、歌を詠む。句作する。そうした場合に、「ツ・キ」と読み上げられたこゑの月と、表現された漢字の「月」という文字とのあいだに、(歌会や句会で、読み上げられた「ツ・キ」 と、選の用紙に描かれた月という文字と較べると分かりやすくなる)なにかわけの分からないズレ、断層がおきてしまい、そこに眩暈に似た気分が生じることがある。通常は、次の瞬間に、たちまち失せてしまう感覚ではある。 しかし、これは、一文脈のなかにもともと由来の違う言語システム、その違いによる異なる二つの視座が単純なわたくしのあたまのなかに同居した結果からくる臨床例ではなかろうか。もしかしたら、ビジュアルの「月」という漢字と耳に聞く「ツ・キ」とでは大脳の処理系列に違いがあるせいかもしれないが・・・。詳しいことはわからない。

  実は、わたくしたち無文字時代に根をもつことば 「ツ・キ」は、表現描写をタブーとする文化背景をもったところの「ツ・キ」である。わたくしたちの基層文化は一万年近くにもわたってイメージの表象や描写をきらい、概念の発生をタブーとしてきた。このタブーには、描写に宿るワルサの働きを抑えて共同体内部やこころの混乱を回避(アイヌでは現在でもそうである)したり、権力の集中を避けて、内と外との共生を図るろうとする深くきびしい智慧がはたらいていると思われる。この表現描写をタブーとして無文字文化を支えてきた装置のひとつには、延々とあの土器に仕組まれてきた縄眼の文様がある。(そこにワルサが降りてくると信じたイメージ表現を禁止し、さらに悪霊を寄せ付けないように施されたのが縄目文様である。この縄目という装置は、現代にいたるまで、その機能を変えずに、祭事ツールとして変様・伝承されてきている。)もうひとつの装置が、ここでいう、いまだに現代のことばとしてわたくしたちの暮らしの母屋を形成している古言(ふること)という装置である。- ここでいう古言(ふること)は、漢語・外来語に対して元々日本で使われてきた固有語の「やまとことば」 の意で使用している。

  漢族の言語を集約し、観念を形象化し、現神にひとしい依代として、あらゆる中国文化の要の位置をしめてきた漢字という文字表記文化。一方、イメージを排斥・無化することによって却って世界をありのままに受容し、あらゆるものと共生しようとする装置としての古言(ふること)。この両言語は、いま漢字という表記文字を共通としながら「ツ・キ」 ということばひとつとっても、その指し示す意義内容と働き方が決定的に違っている。もっとも共通文字だからといって、ことなる文化圏で当該概念の用法や関係性がちがっているのは当然である。が、ここでは日本という同一言語圏内における現象に限っても、日本語として定着した漢字と、「ツ・キ」 というふることでは視座が違ったものになってしまうということ。またそのことによるズレの感覚と意味を問題として提示している。

  いまもなを古言(ふること)を母屋として暮らすわたくしたちは、ホン根のところは表現を潔しとしない無文字時代文化に活きているのである。
  (では、描写表現をしない美とは可能なのか、そうだとすれば、どんなものなのか。そこは、ジブンの美術の核心なので別の機会に詳細する。)
 また、「ツ・キ」 はギリシャローマン語系のようなシステム言語を背景にした関係項としての「MOON]ではない。まして自然科学の対象たる即物的あるいはE=MC2に還元される「MOON]でもない。


 「ツ・キ」が指示する内容

  そうはいっても、「ツ・キ」と云うと、 ダイレクトに月そのものを指示しているようにおもわれる。当然である。が、古言に働く法則を探りながら美術的なモノ・コトの実作を重ねて来た個人的臨床体験から、この常識に異議を申し立てたい。そして、直感で断言したい。 「ツ・キ」は、中国の「月」や欧米語の「MOON]のようには、月そのものをダイレクトにその内容としていないと。重複になるが、この説明し難い事態へは「視座」というベクトルを導入し、この際、もうすこし先まで見ていきたい。その前に、もういちど視座の話をくりかえす。

 ここでいうところの視座にはおおきく分けて二種類ある。ひとつは、自然科学に代表される視座として、観察する主体が拠っている無人称のいわゆる客観的な視点である。さらに、もうひとつの視座は主観を越え、対象世界と一体となって生まれるといわれている全体的視座である。主に東洋世界の芸術?界や武術、芸能分野では古来から現在にいたるまで、この視点の重要性が強調され続けてきている。この視座はまた、中国文化の視座と、日本文化の視座とではおおきく違っている。はじめに、漢字に象徴される中国文化の視座とは、そこにタオイズムや陰陽思想にもとづき、秩序ただしく気韻生動が働
ところの個別と全体がシステマティックに関係づけられた視座である。日本文化の視座とは、観る主体をワレから全体世界へと譲ったとき、その空っぽの場に宿るものは、きわめて個別的、場当たり的であり、その反面、権威との関係性づけが薄いところからくる即位即妙に自在にはたらきイマ・ココニ在る全体としての世界をありのまま照らし出し、あるいは顕かにする視座である。そこで話を戻す。


  光速度直感をコマ送り再生してみる。


  「ツ・キ」 という古言(ふること)に根をもつことばは、辺りを祓って、そこにある種の共時的ブラックボックスの場を創りだす。同時に 「ツ・キ」を縁起として、その空(ウツ)というナニモナイ場へ、流れる雲や、湖面のさざなみ、暗い森、あるいは懐かしいひとの面影、そして見上げるジブンの想いとを共時的に呼び込み出会わせる。そこで はじめてブラックボックスの場に全体的視座が生起し、全体が融合したところの縁起世界が響き合ひ現れ、晴れて「月」がかがやき現れて、最後にワレが月を認めることとなる。 月は対象存在の月でないところの月として・・・。表象された漢字のイメージに対応した「月」ではないものとして・・・。それ自体が威力をもった存在ではないものとして・・・。リアルタイムな一期一会の場の取り持ち役、
機縁として・・・。共生世界に席をゆづる場としての存在として・・・。瞬間瞬間、なにもないカラっぽの空(ウツ)として、同時に他を輝き映しだして有る、現(ウツツ)として・・・。
  「ツ・キ」 と同様に、古言(ふること)に根をもつあらゆることばには、単独のことば各々において、空(ウツ)の無化、と現(ウツツ)の顕現が働いている。このような古言(ふること)の一音一語は、表象された「月」や、関係性のなかで表現ツールの役割を果たすシステム言語のなかの一語とはまるで異なった機能をもった存在である。みづからは、カラっぽとして、その場その時にリアルタイムに自然やさまざまなモノ・コト・想ひ・またジブンとが在るがままに出会ひ、共生し、交響できる場として。その時、ことばは共生世界を映し出すウェアラブルな立体ブラウザとして機能している。 ・・・・・・・・・続く。

 (ついでに、「ぼくテキ」とか、「わたくしテキ」と主体を暈かす現代語について。この用法に対しては、責任の所在を明確にすることを避けて、あいまいさを好む国民性だからという解釈がされることが多い。しかし、それは情緒的すぎる説明だ。この傾向にも、日本語独自の法の働き(空(ウツ)の無化、と現(ウツツ)の顕現)が関与していると想像する。この法の原理は、ぼくや私という表明された概念の主体を無化し、空っぽの場として、世界を受容するメディア装置に変換してしまう。そこでその辺りの事情を鋭敏に、無意識裡に自覚し得た人々が、ダイレクトでない主体としての「テキ」という、ことば遣いをはじめたのではないだろうかと、わたし的には推測している。)


             マトメる

漢語漢字にみる「月」
「月」は[YE]=月であるところの月である。
また
、「月」は
月の意と表象である。


日本語漢字にみる「月」
「月」は「ツ・キ」のあて字である。

こゑにだす「ツ・キ」
「ツ・キ」は月でないところの月である。
(空)ウツとして、月的に世界を映しだす。

この「ツ・キ」をほかの大和言葉におきかえてみてもいい。あるいはいまのことばの「ジブン」「ワタシ」でもいい。なお、古事記の「天地初発之時・‥」の「アメツチ」にするともっと分かりやすい。「アメツチ」を「天地」と表記した瞬間に視座は、他の文化圏の視座となり、ほんとうのジブンたちの姿というものは見えてこなくなる。以下でいうところのナリスマシの視座である。そこでみえている実際の姿は、湖面にうつったジブン自身の影でしかないはずだ。

            2009年4月12日明方の直感にもとづく覚書   有

  チョイMemo - 1
ばかばかしいけど、この「ツ・キ」をほかの言葉、ダイレクトにモノそのものを指示していそうな 「ナベ」「カド」に置き換えてみる。言語と対応する事物との関係を欧米言語学でみれば、そこになんの疑問もなく、「カド」は、リアルの竈に対応する言語であり、それだけのことである。ここでいうわけの分からない事態は問題外である。しかし、わたくしは、この古言(ふること)に根をもつ「ナベ」「カド」にさえ、さきほどの「ツ・キ」と同様に、空(ウツ)というナニモナイ場へ、さまざまな想いを共時的に呼び込み出会わせる働きが介入し、全体的視座が生起し、現(ウツツ)として存在してある・・という不思議な言葉とモノとの連関プログラムが働いているとおもう。
ちなみに、「
のかみさま」があるように、日本人にとって、すべてのモノは、用具以上のカミであるのも、そんな事態からきているかとおもわれる。

  チョイMemo - 2
ずいぶん前のころ、手元にある風邪薬の分量を間違えたことがあった。しかもジブンはアレルギーなのに、ピリン系の薬である。とたんに、蒼白になり、救急病院のお世話になったのだが、その時おもしろい体験ができた。
たぶん中枢神経が一時的にやられたせいだろう。ジブンの判断力とか、ことばとか、痛感覚とかは、非常に気分がわるいだけで、正常にはたらいている。動きもできる。ただし、四肢との一体感、統一感だけがなくなり、ジブンのもののはずの手、腕、足、がてんでバラバラにかたわらの無重力空間に浮いた状態に陥った。そこで、発見できたのは普段まったく無意識だが、指、手、腕、脚、すべての器官が存在し、運動可能である為には、なんらかの心身統一機関が関与しているということだ。いま、ことばのことを問題にしていて、この私事を思い出したのだが、つまり、日本の古言(ふること)に根をもつことばの一語一語には、身体の統一機関、中枢神経のような役割を果たす先験的な機関、しくみといったものがまえもって存在しており、そのしくみが全体的視座を生み出しているのではないかということである。そこで初めて、あるいは結果的に各言葉が各モノを目に見えて指し示し、機能し得るようにさせるなにか・・・が。


ナリスマシとしての第二言語の視座


それに較べ、他種のシステム言語に寄生して、隠蔽擬態する第二言語の視座とは、ナリスマシの視点という他はない。
  ついでに、寄生された側のオリジナルな言語体系について言及すれば、その拠って立つプラットフォームが欧米系言語であれば、高度に抽象化されシステム化された言語として、その各々の用語は指示された内容であるモノ・コトに応じた符号、ないし記号の意味を持ち、使用主体の目的にしたがって、システム全体のなかで位置づけられ、関係づけられる。こうして結果された世界は、わたくしたちの古言(ふること)の一音一語が開く在るがままの世界とは、存在の相もまた従ってその視座も、まったく違ってくる。その差異は優劣で比較し得る種類の問題ではない。

 
  したがって両言語の使用法は全くことなる。
 第一言語は全身を通過したことば=韻文のなかや、普段においても本音として母屋でかたられる。第二言語は計算的、便法的な概念として鏡にうつった虚像を自己とし、虚に視座を設定し、そこから内と外を眺める。便法的な概念としておもに外向きに記号化され、取引される。 その結果、便法は便法の役割を終えたとき、すぐに本音に包括されて、無化されるか次の第二言語概念に取って代わられる。

 有史以来、両言語共存というこの二重性が、個人から国家システムまで、そして現代の芸術・哲学までをも共通に支配し続けている。大宝律令や昭和憲法の無限拡大解釈など、国家社会の意思決定メカニズムの不思議な混乱は、この両言語共存というわたくしたちの二重性にこそその原因が求められなくてはならない。


 第一言語の構造原理から第二言語が生み出されている。


 ことばの構造原理はすなわちモノとコトの美の構造原理でもある。



* これらのメモは、美術制作の作業途上でうまれた直感をもとにした自身のための覚書である。モノとコトバとバトルしながら直感を走らせているので、殴り書きにちかい。機会をまって整理する。


    

       





■ 構造化 ■ ・ モノに構造を持たせるとは、 独自文法にはたらくロゴスをモノへと適用することである。 つまりもの・ことの法身化と同義である。
 ・ これらの独自法の構造を与えると、モノは、 もはや対象存在を止め、 透明化して、世界と同化する。 これは、歌、俳諧。 茶の湯、そ して能楽の視座の獲得法と同様である。 欧米の造型概念とは、全くことなる。 
 ・第一言語の視座への転換、つまり全体存在の視点が生まれたとき、ものは対象存在を止める。 物理学でいうところの「思考実験」に似た独自作業をフィールドワークとして長年積み重ねてきた個人的体験である。


                          
            
 ■ 具足化 ■ ・ モノが法身化すれば、 モノは世界と同化する。
 
 ■ ロゴス・法・ダルマ ■
 ・ 一体化を果たさないと世界は開示しない ・
  ・ 世界との同化の法則 ・


                




一、内なる第一言語の法則  
二、内なる第二言語の法則

 ■ 「情緒」について  ■

    
 
第一言語感覚におけるいわゆる情緒といわれるものについて、余韻、引きずり、など、対象存在をなくしてしまった場合の世界の重なり具合。その全体性における関係をいふ。
 
(にほひ ・ ひびき ・ おもかげ)
 
夢のうちの夢という 「夢の入れ子」構造をセルの基本とする。ミクロまで構造化、固有のモナドとする




           

    二、第一言語の定義づけ。

 ■ ウ ツ ■ 
 ■ ウツツ ■ 
 ■ ア ル ■
 ■ ナ シ ■
 ■ 〜 ず ■
 ■ あらなくに ■
                                   
 ■ おおき ■  
 ■ ちさき ■
 ■      ■

 

第一言語空間に固有の関係項」洗出し。
   そこに身体を関与させた場合と関与のない場合。

 ■ おもて うら ■
 ■ うしろ まえ ■
 ■ あと さき ■
 ■ アル ナシ ■
 ■ うえ した ■
 ■ みぎ ひだり ■
 ■ かむ のむ ■
 ■ みんな はんぶん ■
 ■ はじめ おはり ■
                                   

第一言語の 基本動作
 ■ うがつ ■   
 ■ けづる ■

 ■ わ る ■

 ■ す る ■
 ■ う つ ■
 ■ う む ■
 ■ なげる ■

 ■ ありく ■
 ■ はしる ■
 ■ たたく ■

 ■ ねまる ■

                            
第一言語の身体語
 ■ ほほ ■ 

 ■ ほね ■
 ■ ほぞ ■

 ■ ほと ■
 ■ め・は・せ・け・て■
 ■ みみ・ちち・もも・ほほ ■

 ■ あ・たま  あ・し  あ・ぎと■

 ■ すね  ほね  むね■

 ■ くち   くび ■

 ■ つめ   ゆび ■

 ■ のど   ほと ■

 ■ まゆ   はな ■


明けは陀羅尼、夕は経


         
                
  
        

   抽象表現主義 対 具象非表現主義 「科学といふ物語」の始まり。
   オムファロスの石をめぐっての一考察  
ギリシャ デルフォイにて  有
 

       

    コスモス世界の臍(ほぞ)
  オムファロスの石



この被征服民族ピュロス女系社会の石が、世界の臍・要石として、アポロン神殿地下の実質上の守護神である。男性原理による調和のとれたコスモス世界、その地下宮殿には、ディオニソス以前から女性原理社会の象徴であるオムファロスの縄目文様石が鎮座しつづけている。 ギリシャコスモスの美の世界や、近代自然科学にまでつらなる古代ギリシャの ロゴスのアポリアを支えるプラットフォームとして・・・。
時にその秘密は、浄化をともなうカタルシスの装置として、ギリシャ悲劇や、パラドックスによりあきらかにされた。この構造は、規模こそ小さいが、高野山に旧来文化としての祠を祀り、その上にあたらしい印・中文化としてのの大寺院を建立したかの空海の精神構造と比較しうるだろう。
 ■ ピュロスの女系社会から ■
 ■
アポロンの抽象男性原理世界へ

デロス島に上陸し、アポロンを生み出した一族はペロポネソス半島からパルナッソス山麓のデルフォイへと侵攻。短期間に女系ギリシャ全土を制圧。(デロス島でアポロンとアルテミスの誕生した様子や弓を引く幼子アポロンは壷絵になっており、そこからそのへんの事情が読み取れる)、これよりデルフォイ地下神殿に女系社会であった被征服民族の象徴が鎮座し、祭られることになる。世界の臍として。ここから新旧交換ドラマとしての神託が発っせられる。悲劇の源であるデルフォイ。ただ、この悲劇は、パラドックスの論理と同じく、女系社会の記憶の原風景を残した智慧の体現としての悲劇であったはずだ。かくして、コスモスの調和は地下宮殿に鎮座したディオニソスの守護のもとにオムファロスが保障することとなった。オムファロスは決して地上に姿を顕してはならなかった。地球の臍、ギリシャ制圧の世界の中心、面積をもたない点。そこから、調和のとれたコスモス座標軸をひくことのできる抽象的で、具象を昇華した中心点であり続ける必要があった。ただし、この美しいコスモス社会には、維持のための仕組みが隠されていた。それが密儀としてのデルフォイの神託である。時にケイオス世界からのカタルシス、浄化は一点の曇りないコスモス世界を維持するためには必要であったに違いない。 ここに、ギリシャの抽象表現主義の完成をみた。
「科学といふ物語」がはじまったのだ。
(あらゆる古代社会では、世界のはじめとしての柱や石が認められるが、ここ古代ギリシャにおける中心点の設定は、その後の文化圏に及ぼした影響の大きさからみて、あるいは、そこからもたらされた奇跡的ともいうべきコスモス世界という究極の抽象化世界の在り方からみて、他の文化圏の中心点設定とは、その質と意味が異なっている。)

初期ギリシャは、このカタルシスという智慧ゆえに、後世の西欧が陥ったようなニヒリズム世界ではなかった。

    

ウツ(空)とウツツ(現)のラボラトリー 
森羅万象のからくりに迫る。

瞬時に、表裏を入替え、有即無と、光速度で点滅しつづける
ウツの無化とウツツの顕現世界。

造化の神に代って、森羅万象のからくりに迫ろうとするなんて、妄想にすぎない、あるいは、不遜ではないか!・・・。しかし、現代科学分野でも、DNAに基づく生体科学や素粒子物理学などでもいまや日常的に、あるいは、大統一理論で、妄想に近いかと思われるほど大脳を含めた身体や自然宇宙の全体のからくりを解明しようという試みは盛んだ、
ここで行うのは、等身大の、かつ身辺の宇宙を開くための一種の思考実験である、決して神秘的的な実験でも古代幻想に幻惑された種類の試みでもない。いまの私たちに「なにが出来て」、「なにが出来ないのか」の確定整理のためのテストである。併せて、わたくしたちの内には、ここでいうわたくしたちの内なる言語の二重性に応じて、普段に二つの視座が混乱しながら共存していること、その視座の違いの意味を経験的に明確に際立たせること。それがまづ、身体軸にそった美の意味を探るうえで重要になってきていること。それらを自覚するための実作業である。
あらかじめ、視座が整理できたと仮定して、先行指標としての結論のひとつを先にいってしまおう、第一点は、「わたしたちには本来的にあたらしいものは、なにも生み出せない。その替わりに、造化の神の創造の邪魔立てをしない具体的な工夫をするだけで、何かがおおきく変わり得る。」(ある工夫によりジブン自身も空ウツの装置となることで)。第二点は、「ウツを感得すれば、ウツツの顕現世界、造華世界の構造のより深い自覚を生じ、さらに高次の自由な具体的な係わり合いができるようになる。」(補助線を引くような作業であるが、本質的にわたくしたちのコノ場合の関わり合いは、全体世界の脇役に徹することである)首尾よくいけば、だれでもが身辺の広がりのなか、輝きをいや増した深宇宙と出会えるようになるはづだ。

 環境設定:日常性を遠く離れた場にひとりでいる。大自然の懐に抱かれていれば海岸でも森のなかでもかまわない。できれば現場がいいが、想定でもかまわない。


   空(ウツ)の実験 (無化の体験)
実験一.「科学的なる自然観の原理を発動して眼前の自然の一部を実際の数値として分析してみる、また、できるだけ立体として、眼前に大建築物を建てるために供用できるようなパースペクティブなスケッチを試みる。」ジブンの知りうる限りの科学的方法や、西欧的造型美術の方法でかまわない、波の崩れ方の法則解明などは、難かしいので、簡単なユークリッド幾何学でも思い出して、山の高さでも影から割り出してみる。(その際、自然へ法則を適用し、結果を導き出そうとしているジブンの動機、かかわり方を位置・目的・価値観・視座・こころの働き等々をジブンなりにチェックして観察記録にとどめておく。)

   間をおいて。

実験二.「意識上の日常や社会関係を零にリセットして単一の自己へ帰ろうと試みる。(外部に規定されたジブンを捨て去る試み)

実験三
.「ジブンのなかにあるあらゆる論理と概念を捨て去る試み」(空っぽの自己となる試み)
 造型感覚を捨て去る・ 科学的自然観を捨て去る

実験四
.「湧き出してくるすべてのイメージも捨て去る試み」
実験五.「ジブンという概念も捨て去る試み」
実験六.「あらゆる対他意識を捨て去る試み」

 
捨て去るものには自己意識も含まれる
実験七
.「捨て去ろうとする試み自体を捨て去る試み」
*捨て去るとは、なにもない抽象的な否定のNICHITに向かうことでなく、抽象的単位設定のゼロとなることでもなく、印中の空や無へと向かうことでもない。しかし、印中のあるいは宗教的な潜在的無の影響は、排除し切れないかも知れないが、可能なかぎりそれを忘れて、わたしたちの普段のことばにある空(ウツ)の感覚へと現在のジブンを投企していく。たとえば
空になるこころは春の霞にて世にあらじとも思い立つかな
と歌った西行が心身を投企しようとする先は、真空の無ではなく、理論的空でもなく、霞の這うような具体的なる空っぽの「そら」である。
「カラッポにするの「ラ」。雲行く「ソラ」の「ラ」。「ハラッパ」の「ラ」のように「ラ」一音で憶測されるところの手ごたえのある具体的空間である。ことば{ラ」はまた、「知ラず」とか、「あラず」とかいう未然形の「ラ」の感覚でもある。そうした身辺の広がりのなかへとジブンを楽しく重ねていくのが捨て去ろノウハウである。このへんは日本画における京都円山四条派が日本伝統の無化の方法として日々の写生を高く位置づけた理由にもなっている。


   現(ウツツ)の実験 A. 一体化の鍛錬
実験八.「なにもないところで、無限定のものと関わる試み」「関わりということばもないところで世界と同一化する関わり」
 おそらく、狭い養鶏ゲージでのみ飼育されていた鶏が大自然の前に出された時と同じで、はじめは一歩も動けない状態となるだろうけど。

実験九.「視座転換の試み」 「観察する主体が消失すれば視座もなにもない話だけど。「空の実験」の効き目があれば、視座はむしろ全体世界へ移ってしまい、ジブンは見ながらにして、見られている立場に変質しているはずだ。」

   いままでは、準備体操である。ここからが、いよいよ本番の実験である。

実験十.「・・・。・・・。・・・。」


   現の実験 B. 実際に造化の神の手を借りることになる。(具体的ノウハウのヒントは普段のコトバの働きのなかに隠されている)。
実験十一.「・・・。・・・。・・・。」

  検証実験 C. 視座の違いの意味を確定、総合する。
実験十二.「実験一の科学的精神の視座とその後の実験結果とを比較検証しさらなる厳密な関わり合いに活かしながら作業を継続する。」

 以下「つづきと不足は 今度!」
*これらは、実際に、ジブンや他人の実作・制作・創作・あるいは指導をしてきた時のプロセス(実際には各局面にあわせてより具体的な方法をとっている)の一部を順不同でラフメモした個人的なものである。、この辺の肝心なところはある程度の時間をとりながら、順次整理していく。
 


 HINT

庭石の始めの石を立て、ことばを立てて、そこへ歌仙を巻くやうに
付け合いをしてゆけば。そこに原始の力が働き、森が、海が山が顕われてくる。


           

 ■ 宇治平等院曲水庭園  ■
 ■ 奈良平城京の庭園遺跡  ■
 ■ 銀閣裏山斜面の組石 ■

 
 
 


万葉仮名


「漢字」と「漢字を仮名として」使用。
「音(おん)仮名」+「訓(くん)仮名」+チャイナ文借用+当て字
「四十七文字」+「ゐ・ゑ・を」を加えた五十音図。
   ひらがな・カタカナの語源
あ(安)  い(以)  う(宇)  え(衣)  お(於) 
か(加)  き(幾)  く(久)   け(計)  こ(己)
さ(左)  し(之)  す(寸)  せ(世)  そ(曽)
た(太)  ち(知)  つ(州)  て(天)   と(止)
な(奈)  に(仁)   ぬ(奴)  ね(祢)  の(乃)
は(波)  ひ(比)  ふ(不) へ(部)  ほ(保)
ま(末)  み(美)  む(武) め(女)  も(毛)
や(也)  ゐ(為)  ゆ(由)  ゑ(恵) よ(与)
ら(良)  り(利)  る(留)  れ(礼)  ろ(呂)
わ(和) ん(无)
ゐ(為)  ゑ(恵)  を(遠)

    カタカナの語源
ア(阿)  イ(伊)  ウ(宇)  エ(江)  オ(於)
カ(加)  キ(幾)  ク(久)  ケ(介)  コ(己)
サ(散)  シ(之)  ス(須)  セ(世)  ソ(曽)
タ(多)  チ(千)  ツ(州)  テ(天)  ト(止)
ナ(奈)  ニ(仁)  ヌ(奴)  ネ(祢)  ノ(乃)
ハ(八)  ヒ(比)  フ(不)  ヘ(部)  ホ(保)
マ(末)  ミ(三)  ム(牟)  メ(女)  モ(毛)
ヤ(也)  ヰ(井)  ユ(由)  エ(慧)  ヨ(与)
ラ(良)  リ(良)  ル(留)  レ(礼)  ロ(呂)
ワ(和)  ン(无)

ヰ(井) ヱ(衛の簡体語?) ヲ(乎)
 (ヱ(衛の簡体語は常用漢字に含まれないので表示不能)


THE 芭蕉 

   
猿蓑集
  
300
299 298 297 296 295 294 293 292 291 290 289 288 287 286 285 284 283 282 281
続猿蓑集 
280
279 278 277 276 275 274 273 272 271
 270 269 267 266 265 264 263 262 261

野ざらし紀行
260 258 257 256 255 254 253 252 251        002 004


本居宣長


    仁斎・徂徠・契沖・真淵・宣長

            - 玉勝間より

からごゝろを清くはなれて、古(ヘ)のこゝろ詞をたづぬる。そこで言(ことば)と事(わざ)と意(こころ)を一致させて「思い」を開いていく。
すると、そこにおのずと古来言語の本質が開示してくる。 そこで生じる秘蹟としての感嘆。「思い」。それが、彼のいふ「もののあはれ」であろう。


     「あがたゐのうし」


宣長と真淵の出会い。  一七六三年五月二五日 
あがたゐのうしは古(ヘ)學のおやなる事
からごゝろを清くはなれて、もはら古(ヘ)のこゝろ詞をたづぬるがくもむは、わが縣居(ノ)大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古(ヘ)言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をもよみいで、古(ヘ)ぶりの文などをさへ、かきうることゝなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有ける、今の人は、たゞおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御蔭《ミカゲ》によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典《イニシヘノミフミ》をうかゞふにも、漢意《カラゴヽロ》にまどはされず、まづもはら古(ヘ)言を明らめ、古(ヘ)意によるべきことを、人みなしれるも、このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そも/\かゝるたふとき道を、ひらきそめられたるいそしみは、よにいみしきものなりかし、



     からごゝろ

漢意《カラゴヽロ》とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非《ヨサアシサ》を論ひ、物の理(リ)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍《カラブミ》の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意《コヽロ》世(ノ)中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、當然理《シカアルベキコトワリ》也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そも/\人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非《ヨサアシサ》に二つなければ、別《コト》に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、眞《マ》心にあらず、かれが是《ヨシ》とする事、實の是《ヨキ》にはあらず、非《アシ》とすること、まことの非《アシキ》にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非《ヨサアシサ》に二つなしともいふべからず、又|當然之理《シカアルベキコトワリ》とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、


     漢  意

漢國には、おほよそ人の禍福《サキハヒワザハヒ》、國の治亂《ミダレヲサマル》など、すべて世(ノ)中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理などいひて、これをうへなく尊《タフト》く畏《オソ》るべき物とぞすなる、さるはすへて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなることをえしらざるが故に、みだりに造りまうけていへるものなり、そも/\天は、たゞ天つ神たちのまします御國のみにこそあれ、心ある物にあらざれば、天命などいふことあるべくもあらず、神を尊《タフト》み畏れずして、天をたふとみ畏るゝは、たとへば、いたづらに宮殿《ミヤトノ》をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るゝことをしらざるがごとし、然れ共、外(ツ)國には、萬(ヅ)は神の御しわざなることをえしらざれば、此天道天理の説を信じ居(ヲ)らむも、さることなるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有(リ)ながら、それをば尋ね思はずして、たゞ外(ツ)國のみだりなる説をのみ信じて、天といふことを、いみしき事に心得居て、萬(ヅ)の事にその理(リ)をのみいふは、いかにぞや、又太極無極陰陽乾坤八卦五行など、こと/”\しくこちたくいふなる事共も、たゞ漢國人のわたくしの造説《ツクリコト》にて、まことには其理とてはあることなし、然るに神の御典《ミフミ》をとくともがら、もはらこれらの理(リ)をもて説《トク》なるは、いかなるしれわざぞや、近きころにいたりて、儒意をのぞきてとくと思ふ人も、なほ此天理陰陽などの説のひがごとなるをば、えさとらず、其|垣内《カキツ》を出(テ)はなるゝことあたはざるは、なほ漢意の清くさらで、かれにまどへる夢の、いまだたしかにさめざる也、又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小《チヒサ》き理(リ)にかゝはり泥《ナヅ》みて、まことの道の、微妙《タヘ》なる深きことわりあることを思はざるもの也、此大御神天津日にまし/\て、その御孫《ミマノ》命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其|理(リ)は測《ハカ》りしらるべききはにあらず、おのが智《サトリ》もてはかりしることあたはざるをもて、其理なしとおもふは、例の小《チヒサ》きからごゝろなるをや、


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       草のいほりに今日も暮らしつ

  方法論 - 二千九年四月現在作成中

哥座の方法論


   科学という物語の
仮説実証のプロセスに代へ


いままでの「もの」「こと」の実作の立場から仮の先行公理を打立てる。
「古言(ふること)」の法則に従い対象とバトル。

 (ここでいう法則とは、自分で創った陀羅尼に似た覚えやすくした母語の基本法則簡略版。例えば身体を軸にした時は内・外とか上・下とかほとんどが二項対立項目だが、状態や動詞関係もひとまとめにして覚えやすくしている。美術製作のみならず、俳句や短歌の実作にあたっても大変重宝している)

うまくいけば、先行公理のもとで、対象と私との境界が失せる時がきて、あらたな時間の生起を感じとれるコトがある。そのときが完成である。そのとき先行公理は対象と私とを包む構造そのものとなって、対象と私とともに透明化してしまう。理を止揚してしまう。次に具足化した実作品に照らし先行公理を検証する。

この経験に基づく公理の立論と、モノの具足化、再検証による成果は、従来の自然科学に対する有効的な批評を可能ならしめるような未知のチカラに満ちている。


- 過去作品の具体的作業写真を準備中



  はじめに
 まづ、枯山水の立石のごと、主となる柱を立てる。次に、公理へ応へる形で次の柱(小命題)を沿わせて立てていく。
その際、概念を交えないように素直に、ひびき、にほひ、俤、という主客を止揚したところのふることばに内在する固有の 先験的詩的直観と論理へ、いま、ここに在る固有の全身体で聴き入りて、従ふ。検証の際にも、西欧自然科学の無人称の立場を排する。(西欧自然科学・芸術という物語が立脚しているその立場とは、後述するように、所詮、ポストミュケナイに鮮明となり、その後の近代自然科学、ルネッサンス以降の西欧芸術の方向を絶対的に決定つけることになったところの、根底にニヒリズムを宿した抽象思考に基づいている。実験室に、あるいは炉部屋にこもり、またアトリエに臨席する貴方は観測者として常に非在以上のものではない。そこに具体的な固有の身体はないはずだ。あなたはあなたであっても、あなたを見つめつづけるあなたは、永遠にあなた自身にはなり得ない非在のあなたでありつづけるあなただ。それは個別の具体的身体をもったあなたではなく、抽象的な非在の点としての思考するあなただ。そうでないと一般自然科学でいうところの客観性や普遍的再現性は成立し得ないだろう。また基本的にパースペクティブな視座と方法論のもとでの欧米芸術も成立し得てないはずだ。このことは一見パースペクティブな視座を廃棄したかのように見えるキュビズムや現代のコンセプチュアルアートにまで一貫していえることだ)

  哥座の方法
( 自然科学と欧米芸術作品の根底にある視座を同一と仮定して話をすすめる)
  まずは、哥座が作業にあたるべき無限に連関した混沌世界は、自然科学の観測対象あるいは欧米芸術作品の造型観念が捉えるリアル世界ではない。(自然科学の一定条件のもとでの観測対象たるリアルを哥座は、全体存在の抜け殻、痕跡と呼ぶ。観念の対象となったリアルと、観測者も含めてありのまま全てが連関してとどまる事のないモノ・コトの世界とは、相が異なっている。)作業開始から終了の合図も、その後の検証も、その場の固有の一回性である活きた全体存在が生み出す視座による判断に任せる。制作された作品でいえば、その作品そのものでなく、作品を機縁として開かれた全体が連関した関係世界のエッセンスにさまざまな判断の主体を置く。その世界においてこそ、真実の生き活きした全体検証も、その場の参加者ともども同時進行的に再現可能となる。
  このへんは、自然科学の検証プロセスと比較した場合、たいへんわかりにくく、主観的で観念的とおもわれるところだが、実は、その逆である。(自然科学の検証とその結果でいう客観性とは、ある種のみせかけの客観性である。科学的証明可能な条件を設定し、リアル世界の実験条件に適合する素材を選択する。そのうえでやはり、限定された尺度に適合した結果しか判定できないのである。科学を成立させているプラットフォームとは、現代の神のごとく普遍性があるようでいて、歴史的にも、またその妥当範囲にしても、じつのところローカルで至極狭い世界なのである。詳細は本論で後述する)
 それに比して、哥座の採る方法にしても、伝統的なわたくしたちにおける自然へのはたらきかけにしても、その作用と、その結果の受け取め方は、欧米の観念を投影したリアルへの処置方とは まったく異なっている。しかも、その働きかけの結果は、絶対ということばも越えて、宇宙の運行をありのままに、いま、ここの場において、これしかないという風に一期一会に決まっていくものである。これは、連歌や連句のひらかれた座に近いだろうか。ただし、 これらのプロセスは、その訓練や経験を積んでこそ初めて可能となる検証性、再現性でもある。方法論の運用は、常に万人に開かれているが、肝心のところ、胎蔵の秘密は、いまのところ口伝でしか伝えようがない・・・といかにもぶったいい方にしたが、その実、先入観さえ越えられれば、うちのいなかのばあちゃんにバカにされるような簡単な原理である。日本語の本音の部分を大切にするだけでよいのである。

  哥座の思考実験
 自身では、理論物理学でいうところの思考実験を、その抽象的数式思考にかへ、ふることの論理にしたがい、さまざまな場所と分野で、具体的なモノやコトや身体、自然と格闘しながら繰り返してきた。 失敗がほとんどである。しかし、フィールドワークなどでは、時に 理論をこえた視座の転換に成功することがあった。ちなみに、歌会や句会に参加してみるとよい。となりの座のちょっとやりこんだ方なら、この全体的視座の獲得にいとも簡単に成功している。伝統形式というものがいかに隠れたチカラを引っ張り出してくれかというありがたい例だ。それをみると、あまりむづかしく考えることもなさそうだ。しかし、まだまだ、これが他のジャンルとなると事情がちがってくる。例えば、日常の動作にまみれた身体においては、この全体視座への転換はかなり難しい。既成の観念を祓う作業に長年かかってしまう。とくに言語圏の異なる欧米人があこがれで能や舞踏をしに日本へやってきても、まったくかたちにならない。サヨナラだけだ。東洋絵画においても同様な事情だろう。○を描いたり、半分に分けたり、暈かしたり、そこでその先の描写をとめたりの理解が難しくなる。無理もない日本のコトバにはたらくチカラと法をネイティブに経験していないからだ。ところで、モノや音でも、時に視座の転換に成功することがある。ジブンが原始の心性をまだ残しているからだろうか。文字はなく、したがって概念というものがない太古ではみなが、自己などなくこの全体的視座に参与できていたはずだ。観念の発生を避ける智慧として一万年にもわたり、描写をタブーとしてきた。それが、縄文である。当時は表現描写より、表現描写をさける精神のほうがより誇り高かったのだ。しかし、いまもわたくしたちの心性の核、基本的な法のはたらくことばのベースというものは、無文字時代のままでありつづけている。

哥座は、自由とは、創作とは、美とはなにかをこうした無文字時代の視点から野性的に問い直す。


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今年のメインテーマ。

○科学の方法論とその限界を追及。

験とその再現性について。
関数思考の限界について


■ 従来数学・科学は ■
・ 公理を立て、当該公理の領域内で妥当する公式を導き、検証し、公式化。
・ 立てた仮説のなかで、矛盾なく、公理から演繹される各種公式を照明していく ・
 ■ 科学との違いは ■
・ 最大の違いは、科学といふ物語の大前提をとっぱらったところにある。
・ 構造を持たされたモノは、 もはや対象存在を止め、 透明化して、世界と同化してしまう ・
・ ふだんのなじんだことばの世界、 目の前の山河や 路地裏に働いている あるいは、それを支えている 論理世界。その自覚化と、具体的応用化のこと。
・ 科学の基本。再現性ある実験で確証 される論理法則の適用と同じプロセス。

            

      
  わたくしたちの内なる二種類のことば
  第一言語としての古言(ふること)。
  もうひとつの擬態して
  ナリスマシする言語として
  外の文化を受容するための第二言語
  これら両言語間の拮抗を主題としている

 


 


UTAKURA ART WORKS-2                      




 「哥座 UTAKURA 舞踏」  in London   
アルミホイールによるDANCE パッケージ  
  舞踏 Yumi ART & 統括 Direction  有  




 UTAKURA ANOTHER WORKS
 ■
「Each Other」 ワールドトレードセンター in N.Y. 2000     
■「ディオゲネス追悼 works」  
       Mt. ETONA  in  シシリー  
    ・・・ ・・・
 他整理中  



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徒然想起

 080407  「最新刊 花西行」


例年になく早いさくらが散り、山桜が見ごろの頃、秋山巳之流氏の最新刊「花西行」が届いた。差出人は、秋山巳之流。差出場所は、荻窪。とだけ書かれている。「うたくら」所在地と一丁目違うだけの同じ町内からだ。最近道ですれ違うことも少なくなり、昨年の新聞で彼の訃報を見た。しかし、これはなにかの間違いだったのだろう。先ごろのしのぶ会にも参加シナクテよかった。 この分だと、いつか次の新刊も送ってきそうだし、きっと、氏は生死の境目をうまくいき抜く仙術を得ておゲンキなのだ。

          
                氏へ

                           荻窪の戦前知らずさくらかな     有


           


覚書


       イメージに溺れず、 内に独自の構文を持つ。

    一、縄文初期の波状口縁尖底器に
       代表される 「ある種の土器」
    二、花の岩屋の注連縄をはじめとする
       祝い飾り付け。
    三、初期万葉歌
    四、芭蕉
    五、狩野派に対する等伯。
    六、西欧美学に対する初期モノ派
    七、土方巽
    八、K氏

     以下さらに批判検証の必要性あり
    一、縄文中期の火炎式土器に代表されるゴシック土器
(岡本太郎や宗左近のいふ縄文イメージ土器群)
     そこにホンモノの心性の核は宿ってない。
    
むしろ、縄文早期の精神性のほうがはるかに高い。
    二、各地に残る夫婦岩の注連縄や神社の御幣、祝い飾り付け。 
    三、古今集以降の歌
    四、ディレッタントとしての蕪村。

    五、雪舟の位置。 
    六、明治以降、翼賛体制的絵画からコンセプチュアル アートに至る現代までの 絵画・彫刻・造型作品。

    七、「M」 に代表される古代幻想 ・妄想舞踏家
    八、
近・現代詩。 古代妄想の歌・俳。 談合文学としての 出版ビジネス 。 


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座 美学研究所   2009年4月21日   長谷川 有   E-mail :YU HASEGAWA

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