言挙げせぬ国のフィジカ
コトタマの器としての
波状口縁尖底器
縄文の縄目文様は、表象を忌避してきた証であるが、無文字時代の智慧は、イメージや表象を忌避することで、却ってありのままの世界が受容できることを慧っていた.。いまにさえ連続しているわたくしたちのことばの法の核心が、ここに存している。
上イメージはいまから約八千年前の縄文早期の波状口縁尖底土器である。このはるか以前の草創期の器より、そして、その後の中期火炎式や晩期の土器にいたるまで、計一万年以上にもわたって、これらの器は抽象化をタブーとする規範のもとに、描写というものを忌避しつづけてきた。三次元世界を二次元の像へと抽象還元しなかった。そこには、”「物」を対象化した物質とはせぬ”という先史時代言語精神の靭き意思を見て取れる。この規範は、記紀万葉の文字時代になっても「言挙げせぬ」ということばにみられる不文律としてはたらき、さらに現代にいたっても暮らしのなかの本音の部分や、社会の深層心理にまで強くはたらき続けている。
形而上者謂之道
形而下者謂之器
- 易経・繋辞上伝
一方、東シナ海をはさんだ国、中国の器は、波状口縁尖底器からみると、そこから四、五千年ほど時代が下るが、「物」を物質として対象化し、その成分を抽出するという抽象化作業において、はじめて抽出されるところの青銅を獲得。他方、思想においてもB.C.1700年頃の中国では、右にかかげた易経・繋辞上伝第十二章にみられるごとく、「形而上者謂之道
形而下者謂之器(形而上者とは、これを道と謂い、形而下者とは、これを器と謂う)」とする陰陽原理にもとづいた世界の高度な抽象理論の体系化が進行した。この抽象的線刻に適したメタルの獲得と、抽象思考を両輪として、表現は極度にソフィストケイトされてくる。
(繋辞上伝が易経に追加されたのは孔子の時代だが、その思想の基礎はすでに殷周時代にあったといわれている)そこで、「器」の存在根拠は、抽象概念であるところの「道(タオ)」とされ、その理論の深化とパラレルなかたちで、殷周の青銅器の文様の抽象化はすさまじく発展し、天の威光を受容する聖なる祭器として、鬼気迫る恐るべきものにまで深化していく。雷紋や過紋の幾何学文様、獣面文または饕餮(トウテツ)文のような抽象文様は、陰陽宇宙の絶対性の高みにまで表現されて、そこに立ち会う者を威嚇し、圧倒し尽くす。
*易経・繋辞上伝における器の概念は、広義では、天からの陰陽の働きかけを受けるすべてのかたち在るものを指す。すなわち、形而下としての物である。あらゆる存在の根源である形のない形而上としての道(タオ)に対して、具体的な象をもつあらゆる存在物を意味した。狭義の祭器としての器のみならず、人間も含め、地上に存在する現象面において把捉し得られるすべての形象が器であった。
*漢字の原義における器という文字は、犬牲を用いて清めた祭器を形象したものだ。四つの口のあいだにはさまれた大の字は、本来の意は犬牲にあるので、犬が正しい。-
「字統」白川静より抜粋。かように器は天からの陰陽の働きかけを受け、まつりごとを行う、このうえなく神聖なものであった。それゆえ器を制する者は、その象を尚(たっと)ぶ聖人であるとされた。
序論
思想解明にあたって
易経や漢字における器に聖性をみる基本的な位置づけは、暮らしのなかに位置づけられた性格がつよい日本の器にあっても、器というものの古代における重要性を考慮してみると、これら器はたんなる道具存在にとどまらす、聖なる性格を帯びていただろうことは、想像に難くない。早期の波状口縁や中期の火炎式土器などの形態をみれば、それらがいかに道具存在としての機能を逸脱し、なんらかの精神的な意味を担っていたであろうことは明らかだ。それゆえ、この尖底器にはたらく思想を読み取る試みは、即ち、当該精神文化の凝縮した桂離宮やパルテノン神殿の設計思想にあたり、多角的視点から当時の言語精神の深層構造を解明しようとする作業とまったく同じことであり、そこからこの列島の言語精神のはたらきを十全に汲み取ることが可能となろう。
ただし、この解明は内にあっては古史古伝など頼るべき文字資料がない時代であり、また第二次資料として援用可能な漢書による記述もおよばないB.C一世紀以前の弥生からそれ以前の新石器時代が対象となる。そこに古典学や言語学、民俗学、歴史学等々の従来社会科学系人文学の限界が生じてくる。唯一、科学的実証性によって研究可能な自然科学系と人文科学系の中間に位置する考古学に期待がかかるところだ。しかし、自然科学的方法で年代を決め、それを基に層位学と型式学を組合せた調査研究で相対年代を求めることはできても、そこにあった人々の生活・文化・社会のありさままで明らかとする踏み込んだ研究は困難である。まして当時の活きたひとびとの心性の核にまで迫ることは想像するほかなく、学問としての厳密な策定はできない。先史とはいえ、すぐそこにあるひとびとの暮らしや考え方なのであるが、前文字文化と文字文化以降の社会との間にはこのような学問解明上の不連続線が横たわっている。
平成も二十年のころ、霞ヶ浦の地政学的な要となっているポイントを訪れた時のことである。そのあたりは古墳がやたら多いのだが、そんな丘のひとつに立ったとき、縄文中期から晩期にかけての土器破片が無数に散らばったねぎ畑でひとり黙々と畑仕事をするおばあさんの姿にであった。きっと、このあいだまで、田舎のいたるところのくらしのなかにこのような土器破片がまぎれこんだ光景があったであろう。わたくしたちの心性や社会のありかたを考えるとき、こうした欠片をいまに遺す縄文を無視することはできない。そこはヒトのいなかったはるかな恐竜時代ではない。文字の使用の有無という壁があるにしても、一音節身体語や二音節動詞、畳語、てにをはなど現在とほとんどかわらぬ言語をつかうひとびとが暮していたはずのお隣の時代である。
この学問解明上の不連続線を越えて、母語による独自言語精神のはたらきが文字使用の前と後でどう変化したのか、また両者の言語精神に共通のものがあるとすれば、そこにはたらいた法とは何かが探求される必要がある。列島全域にこれだけなまなましい痕跡を無数にのこしている縄文文化である。この無文字時代の視点を解明し、先史とよばれる時代精神から現代の意味を求めなくては、文字資料だけで得られる古代精神の分析から古代や現代をながめても片手落ちの観は否めない。
そのへんは各研究機関でも意識されていて、比較人類学、比較民族学、言語学等の学際的な相互研究でそこを乗り越えようという動きはでている。しかし、実際上は、理念とは裏腹に、それぞれの学問の拠るべき立場が明確になってくると、その間のギャップはひろがるばかりとなる。用語ひとつ例にとっても、学際間で共通に定まったものがないのが現状であろう。この不連続線を、従来学問の方法や、欧米に真似てはじまった学際的な試みなどで乗り越えうるとの熱意は、欧米に由来するそれら学問の基盤そのものが問われないかぎり、もしかして現代神話のひとつくらいは創れても、結局無駄な努力に終わる可能性が高い。
解明の方法
そこで、ここでは無文字時代と文字時代との間にあるこの不連続線に対して、従来の欧米型学問の実証的方法論からはいったんはなれて、母語にそなわる法に従い、「物」へと聴き入り、「物」に添って「物」を開いていく母語独自の思索の方法で臨みたい。そこでは、物を対象として認識するのではなく、物へ出会うという認識に代へた確認の方法を採る。具体的にはそれは、現代美術の実作による体験的で、かつ活きた動的視点から観ていくことになる。そこから、そのギャップへ一本の活きた橋をそれ自体を広い意味での現代美術作品のひとつの作業体として架けわたす試みとなる。もとより描写表現をわざと回避したようにみえる縄文という無文字時代の精神は、表現描写にかかせない抽象化そのもののプロセスをタブーとしてきたのであれば、この尖底器は、捨象および抽象化によってその本質を見きわめて、そこから組み立てた推論を逐一秩序よく証拠立てていこうとする学問範疇から逸脱した種類のものである。したがって従来学問の対象には馴染まないところがあろう。その独自性は、それ自身にそって、それ自身に備わった独自論理で作業してはじめてその内部の秘密へと迫ることができる。
客観であるべき作業を学問にかえて、芸術で解明するなどといいだすと、さすがに困惑される向きが多くなろう。現代の常識からは当然である。しかし、この言挙げせぬ国の思想哲理は歴史的にみても、抽象概念を言挙げして概念を論理的に積み上げていく西欧型学問のようなシステマティックな思想表現のかたちをとってこなかった。道元や西田に代表される優れて構築的な哲学思想もあるが、それらはあくまで山水、大和絵、能楽、茶道、日本画、洋画のように、印度・中国・欧米式学問・芸術原理でなったものを輸入、受容し、日本的深化に成功したものであり、形式は学問のようにみえても、内容は印・中・欧のような厳密な学の体系をなしていないものであることは、識者からしばしば指摘されるところである。そして問題は、それらが果たして母語のちからを自覚的にひきだして、母語を核に、独自発展させてきたこの国固有の学問・芸術だったのだろうかというところにある。
これに対して、人麻呂・芭蕉に代表される和歌、俳諧においては、当初幾分の形式は唐歌を意識したものであっても、基本的には母語言語精神のちからを自覚的に動的な姿で捉え、それ自体の運動でいきた思想にまで昇華させている。その意味で、契沖か真淵か、「この国における和歌は、唐土の詩経に位置づけされるものである」といっているが、和歌、俳諧は、文芸という一ジャンルの詩作品にとどまるものではなく、その一首・一句そのものが母語による活きたままの動的な哲学思想と呼べるものなのである。事実、思想を活きた歌と成し得るとのおもいは「因明論の似現量の心を」と前書して、インド論理学を歌にかえ「むら雲の絶え間のかげは急げどもふくるはおそき秋の夜の月(-風雅集)」と詠む行為にも反映されており、また、「歌は正しく仏法そのものであった。それが明恵のすき心である。(中村元の指摘)」。等々、印中の言語精神にもとづいた論理・学問を、母語言語精神へと、そこにはたらく法が純化されているはずの歌という芸術形式へと置き換えようとする試みは、わたくしたち言語精神のひとつの独自ともいうべき自然な傾向であった。
以下の作業のなかで、徐々に顕かにしていくつもりだが、この列島の言語精神による思索のありかたというものは、印・中・欧の言語精神による思索とは、その方向性や内容・方法論がまったく違っている。したがってそこに働く時間や空間も異なってくる。真理という基本的な概念の意味するところさえ同じではない。
それは芸術自身についてもいえる。周知のように、この国の芸術の名でよばれる作品のほとんどは、印度・中国・欧米式芸術原理を輸入、受容し、日本化されてきたものだ。しかし、動的で身体をとおった母語精神の視座から自発的に達成された作品もある。そんな作品に対しては、印・中・欧の言語精神による思索は適用しづらい。基本的に母語言語精神のちからをかりて動的な姿のまま捉え、連歌・連句のように観る側もそれ自体の運動と一体化して参加、了解しなければ、深い理解にまでたどり着くことは難しくなる。たとえば現代美術の具体運動から*モノ派の菅木志雄や李禹煥にみられる一連の作品群がそうである。達成したレベルは、国際的にみても、同時代の欧米ミニマル・アートや、日本の現代思想家の論文形式の作品レベルをはるかに凌駕したものであり、従来美学や批評の対象圏外に位置している。ただし、その成果が母語という一言語精神を越えた世界でも注目をあつめ得た主因は、まず、作業側が、世界的ポストモダンの流れをうけて、それまでの印中欧米の抽象概念にまつわる惑わしや既存の伝統造型概念を祓ったところで作業できたという、しかも物というものを相手にして、「物をオブジェクトとしてとらえるか物としてとらえるか」という母語の本源的な地平からの問い直しとともにあたらしくはじめることができたという、多分にこの時代のジャンルの置かれた立ち位置の幸運性にあった。そんな既存の伝統造型概念を破った作品を批評側も求めていたのだ。
ところで、いかなる時代であろうと、学問も芸術もその基盤は、いまという現存在との身体も含めた格闘の場なくして成立し得ない。それは、欧米言語精神による主知化・合理化で近代学問の方法論を打ち立てたマックス・ヴェーバーでさえ「学問上、霊感をえるためにも現実の事柄(Eine
Sache)に専心することが必要である」と学問に先立って、現実世界と不離不足の関係で成立する直感の必要性に言及していることからも窺えよう。とりわけその学問の方法論を表面上で受容してきただけのこの国において、近代学問の方法は真似できても、それを生み出した他国言語精神そのものは体験できず、頭の中でのトレースしかできない。直感の拠って立つ場なくば、そして、母語という言葉のチカラの手助けで独自視点と独自方法論をもたなくては、学問なんぞ計算ごとでしかないだろう。
「言挙げせぬ」という言語精神からみた場合、欧米哲学に当たるものとしての、この国独自の思想・哲学というものは、時代とともに表現メディアを変えてきている。縄文では縄文、その後は和歌、連歌・連句、俳諧。そして現在・・・の順に。
一方、明治以降の哲学・美学と呼ばれているものは、実態はいまでいう注釈書附きの輸入パッケージソフト商品にすぎない。バグの多さにも拘らず、いまだ、ほそぼそ流通しているのをみると、せまい業界内で、自らの思考停止を引用によって誤魔化すことで業界内生存を図らんとする意図のもと、権威付けや、アリバイ作りに利用されているようだ。母語言語精神への自覚が欠如したまま欧米哲学・美学の直訳概念を母語で運用表現するという矛盾を犯したままのこれら商材は、哲学・思想と商品名がついていても、この国独自の確固たる思想・哲学とは縁のないものである。
*「モノ派とは、1970年代前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(いか「モノ」と記す)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たちを指す。(菅
木志雄、李禹煥、関根伸夫、吉田克朗、本田真吾、成田克彦、小清水 漸、榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真、原口典之、等)・・・菅はモノの存在の決定因として状況、イベントなどを順次覚醒させてゆき、とりわけ、モノと空間の両義的な接点として「面」ないし「界」に注目し、面の表と裏、界のこちらとあちらといった位相転換をばねとして空間の分節、存在の多元的発現を可能にした方法体系は、まったく独創的なものであった。菅の作品にはつねに「何によってモノは在るか」、「何によって私たちはそれを見るのか」という設問(縁起性)が伏在している。しかし、同じ設問を、ジャスパー・ジョーンズが主知主義的で晦渋なタブローやオブジェに閉じ込めていたのと違って、菅はそれを、モノと空間に沿って、それらとの戯れとともに、肉体的・精神的な快活さで演じていった。存在への問いの答えは、モノにも作品にも概念にもあるわけがなく、モノや空間を分節するヒトとそのヒトの振舞いを規定してくるモノの構造との依存し合う戯れ(それは関係という静的概念では捉えられない)のなかにしかないことを、菅は作品自体によって示すのである。菅において、モノ派は真に肉体を得たと評していい。」-
1986年鎌倉画廊《モノ派》展カタログ/美術評論家 峯村敏明氏論文より引用。
作業における三つの留意点
第一点は、まず、近代美学の造型視点や従来の中国青銅器や陶磁器の鑑定眼は、いったん括弧にいれること。実際、たんなる造形物の国際比較などで外面的な特徴を検討し、理論と実証をいくら積み重ねようが、その比較検討する眼差し自体が、近代自然・社会科学のものである限り、従来美学や、概念、論理思考をはみだしたところから生み出された、この尖底器の美の謎は原理上、読み解け得ない。
第二点は、したがって、この器の「物」として、「事」として在るありかたを、タオ的な理法ではなく、また欧米の概念思考ではなく、わたくしたちの古層にはたらく「言(こと)」のちからを借りて「物」にそって追体験していかねばならない。無文字時代の言語精神にそったかたちで読み解く必要があるのだ。
なにやら難しく聞こえるが、やまと言葉は、おおむね弥生時代に定着したといわれ、そのほとんどは現在も使用されている。たとえば、その後の源氏物語において、その用語や文法には現在までおおきな変化はなく、敬語や助動詞に慣れれば概ね小・中学生でも読解可能である。そのやまとことばのさらに古層に位置づけされる、て・に・を・はの助詞、地名、身体語、二音節動詞、畳語、擬声語という言語群は、弥生以前にまで遡れるに違いなく、その大部分もいまに継承されている。つまり、「言(こと)」は、そのまま幼児からお年寄り、そして*ナリスマシ族までが日常で無意識裡に使用している私たちの血肉身体化されたことばなのである。
思索というものがことばによって深められるものである限りにおいて、母語のちからの手助けなくしては、なにもできないのはあきらかである。だから極力、漢字という「万づの事に繪(かた)を書てしるしとする国-(真淵)」の言語精神=絵文字の意味から離れて、「繪(かた)をもちいざる」言語精神=母語の一語一語の感覚の融通性や類推的に広がる意味領域のひろがりのなかの原音のひびき合ひに深く聴き入りたい。それがこの国の思索の方法なのである。そうして母語に聴き入れば、誰しもが「言(こと)」の古層から現代の思考方では及びもつかなかった程の、おおきなチカラを惹きだすことが可能となる。「ことばの一音一音は、舌頭に千度転がすべし」と芭蕉がいうように・・・。
第三点は、古層にはたらく「言(こと)」のちからを借りて「物」にそって追体験していく際に、悟性的判断にすべての信を置かないことである。状況証拠のみで、全体を判断しないことである。物にしても言の世界においても、状況のみからそれ自体が存在したわけではない。状況だけから、現存在そのものの驚きの内容まで演繹することは不可能だろう。まして、心性の核を問題にしていくときはそうである。しかし、自身を省みても往々にして、そのトラップにはまって、思考停止状態に陥ってしまうことが多い。そうした一例としても、語源的説明の無限拡張に陥らないことである。折口いうように「語源というものは、幾らでももとがある」。語源解釈や細かい状況証拠立ても場合によっては必要となるのは間違いない。しかし、それは他の機会に譲ろう。ここでは詳細な悟性判断ではなく、身体を媒介に聴き取った体験智に軸足を置いた作業をしていく。それで分るものは分る。分らないものはそれ以上悟性で追いかけまわさずに、打っ遣っておけばいつか分ってくるものであろう。
本論
「明治以後、安直な学問が栄えたが、もつと本式に腰を据ゑて、根本的に、古代精神の起つて来るところを研究して、古代の論理を尋ねて来る必要がある。」 -
折口
波状口縁尖底器。
- この器にはたらく三つの法。
一、
この器にはたらく法の核心は、記紀万葉にまでも継承され、人麻呂が当時の中国と比較して、「言挙げせぬ国」と詠んだその言挙げせぬ禁忌法にある。
それは、概念化による捨象、抽象化を排して、言挙げにつながる抽象理論の構築を拒否し、あらゆる物をありのまま言挙げせず、動的な輝きのままに受容していこうとする論理である。物を対象化しないことで、物と一体化を果たし、そこからひらいてくる全球的視座というものに、深く聴き入り、たまかぎるいのちの果てまでも、かぎりなく深く与していこうとする思索態度のあり方である。
このわたくしたちのおもひ・思索のあり方というものは、欧米型言語精神による抽象概念で論理を構成していく思考法とは、まったく異なったものである。両者は、そのままでは相容れず、真っ向から対立するか、すれ違ってしまうものの捉え方だ。だが、この思考のはたらき方の根本的な違いをわたくしたちは、さほど自覚することはない。一般的な日常生活においては、そのことが直接なんらかの支障になることが少ないからだろう。しかし、以下で扱うように、この言語精神に発する思考の違いの自覚欠如というものはそれだけで済まない。他に比肩するものが見当たらないほどおおきな悲劇につながる問題を孕んでいるのだ。
現代美術や現代舞踏の現場にたつと、これらの違いが作品や身体上に如実に顕わになっている事例を具体的に目撃できるのであるが、ここでは、あまり触れないが、言語精神が直接かかわってくるシチュエーションに身をおいてなにか創りだそうとしたときには、かならず、欧米型言語精神と母語精神との思考法の違いに直面することになる。しかし、それが散文形式文学や研究論文という言語自体の作品となると、俳句や短歌という伝統詩形は別として、「身体」や、「もの」でみえていたこの如実な差異は、かえって分かり難くなってしまう。ことばの内包する意味・概念というものに霍乱されてしまうからだ。ことにITに代表される現代は、異なる言語システム間での、即物的利便性の観点からことばを蓋然的に対比させて、そこですませようとする傾向が強まってきている。いわば、翻訳型主導というべきことばの時代である。そこでは欧米型と母語言語精神との思考法の違いはもはや存在しないか、ゆくゆくは乗り越えられるべきものくらいにしか受け止められていない。
特殊なケースを除いて、欧米思考法とのこの決定的差異を自覚することなく、現在、生活スタイルにしても、科学技術にしても、これだけ欧米化したわたくしたちである。しかし、依然、ここで、縄文を代表する器としてとりあげたこの波状口縁尖底器にはたらく法は、母語精神の精華である和歌・俳諧そして、いま、モノ派や舞踏にいたる現代美術の核心や、ひとりひとりの生活の本音の部分にまで、一万年以上にもわたって一貫してはたらきつづけているのである。
現代の代表的万葉学者のひとり、中西進はいう「
古代では、人と自然とを相対化して捉える意識がなかった。人と自然をひっくるめて、ここにある山、あそこにある川、そして私。そういうものを総体として捉えていた。」と。しかし、いまの古典研究家を代弁しているはずの彼の推察する古代人のものの見方は、古代に限ったことではないだろう。サルが進化して尻尾を落とし、ヒトになったとする進化論者が主張のように、わたくしたちは、古代の思考法という尻尾を切り捨てて、中国そして欧米の進歩的思想へと進化してきただろうか。たしかに、合理性に価値を置く日常のものの世界では、ある日、洗濯板が電気洗濯機に変わったように、短期間に縄文土器が弥生土器にとって換わるという劇的変化はしばしばある。しかし、ことばの世界では民族がそっくり入れ替わる事態でもないかぎり、母語による言語精神が激変したり進化したりはすることはないのだ。昨日の洗濯板も今日の電気洗濯機もあいかわらず、同一言語を発っする同一人物が使っている。
人と自然とを相対化しないで受け止めていくわたくしたちのおもひの論理は、古代からかわらず、ごく普通の本音でくらす日本人のものの見方である。ただし、身辺のものを見る限り、欧米型の生活様式となって久しい現代のわたくしたちは、一方で、日常の社会・経済活動では西欧型に翻意された一種のフィクション世界に身を置いて、ものを対象化しながら抽象概念思考(欧米のような厳密な概念思考ではない)もどきをして、他方では、仕事から離れた家庭や、ひとりになった時の本音の世界において、母語による言語精神に還り、ものを対象化せず、相対化せず、そこで生まれだす総体としての視座のひらきへ与するかたちでものごとや自己へ対処したことば=おもひをひらいていく。
「あァ、ぼォッとしてた・・・。」
などおもわず漏らす嘆息めいたことばがそうだが、認識主体としての「人間」という概念さえたかだかこの二・三百年前に発明されたにすぎないというヴィトゲンシュタインではないが、わたくしたちにおいては、そんな西欧型概念思考を導入し、その考え方が定着してまだ百年あまりしかたっていない。主客を分かつことでしか機能しない抽象概念用語にくらべると、このようななにげない嘆息めいたことばでありながらも、その深度は深い。伊邪那岐命と伊邪那美命が「あなにやし、えをとこを。あなにやし、えをとめを」と言い交わし古事記がかきとめた国生みにまつわる有名な言葉同様、無文字時代の言語精神にまでたどれる古層に属することばであり、身体化されているゆえに、母語特有のうつくしく、かわいい響きのひろがりをもっている。
こころの底からの喜び、あるいは悲しみ、怒りにとらわれたとき、現代人は、われ知らず、身体化された古いことば遣いに還ってしまう。その時、ナリスマシの視点からの抽象言語の意味の射程は、世界の表層にとどまるに反して、母語にもとづくこれらのことばは、動的局面に応じた主客未分化の、したがって直接的な意味領域をもこえて一期一会ともいうべき非常にふかい全体世界の在りようをひらき出してくる。
わたくしたちは常に、この二つの異なる世界を*スウィッチングをしながら暮しているのである。別のところでも触れたが、明治初期の国家が雇った高級外国人教師から見た日本人哲学者への感想がある。当時の輸入哲学だからドイツ人かイギリス人だったか、「日本人哲学者の住まう家は二階建てになっている。わたくしとの議論は階上の洋間で理路整然とすすめ、しかし彼は、たえず階下の畳の部屋へおりては和服に着替え、お茶をすすってまた、上がってくる。」と、もちろんこの建物は、彼がみた日本人哲学者の精神構造の例えである。
今後も母語が存続するかぎり、わたくしたちの無意識裡の本音では、概念化による捨象、抽象化をしながらも、それを表層のできごととし、我も対象もひっくるめて、あらゆる物をありのまま動的な輝きのままに直く受容していこうとするだろう。それがわたくしたちの基本的なロジックフィールドなのだから。中村元が西欧言語精神と印度言語精神との抽象概念に関する思考法の違いについてこういっている。「西欧人は、抽象名詞の表示する抽象概念は、日常経験からそれの普遍的意味だけを抽離して抽象的に構成されたものだと考えている。比して、インド人は、それぞれの経験的事実のうちに抽象的概念が、何らかの実体的原理のように内包されていると考える。彼らの思惟方法は、個物あるいは、特殊者の本質は、それが担持し、それが具現している普遍にほかならなぬのである。結果、抽象的な堅さと具体的な堅いものとの区別が、区別されずに使用される。抽象観念が、同時に具体的な事物として表象される。抽象名詞が、具体名詞として用いられる。抽象概念や時間的な観念も実体性ある物体であるかのように表象されるのである。」また、日本語という母語言語精神によるものの捉え方について或る人曰く、「古語は、本質喚起的なものであるシナ欧インド語とは違う。存在の分節形態を対象として捉えない。さまざまに分節された事物の世界のなかにあり、それらに接しながら生きながらも、それぞれを一つのものとして凝固させる本質を認めない。分節形態が、経験的事実として現前していても、ただそれらはそういう形で現れているだけで、本当はないものであり、いわゆる本質は虚構であるというのが、龍樹の中観から唯識へ到る大乗仏教存在論の中枢的テーゼをなす空観であるが、それらや老荘など東洋哲学の最終に目指す会得境地である。しかしながら、ちょうど母国語においてはかような聖者のような態度が誰にもとれるのである。」
しかし、この時代、言語精神間に横たわるこれら思考法の決定的差異を自覚することなく、とりわけ時の権力のひとつにちがいない学のシステム主導で、現今の環境とか平和とか、ほとんどの抽象概念命題がそうであるが、欧米近代思考を唯一の世界基準に、ひたすらものまね概念思考を推し進め、この国へ強要していけば、概念の意味するところとは裏腹に、かならずや、それらの概念・論理は、臨界点を迎える。そしてささいななにかをきっかけとして、政治、経済や法律などの社会システム、及び文化全般にわたる全面崩壊をもたらすだろう。
その理由の第一は、わたくしたちが、母語を使用しながらも、そのルールを自覚化し得ぬまま、欧米型思考法という概念思考に一方的に走ってしまうと、気づかぬうちに母語に備わる基本的なロジックフィールドの枠を踏み外してしまい、そこに起因する母語言語精神との乖離空間が、巨大な虚無空間に変質してしまうからである。そうなると、分裂してしまった両極の融通性は失われて、もはや内部からの修正は効かずに崩壊を待つだけになってしまおう。悪意の第三者が、大学とか研究所とかいわれる学問を標榜する無知なる内部者を手なづけて、彼らの手引きのもと、虚無空間を意図的につくりあげ、それを突き崩す作業は、時間のベクトルさえ読み違えなければ、簡単な戦略ワークとなる。しごく単純な論理である。日常経験から普遍的意味を抽離して抽象的に構成された欧米の抽象概念は、わたくしたちが思い込んでいる抽象概念とは違うのである。て・に・を・はという母語に浮かべた抽象概念は、その瞬間に、概念から概念の本質である関係規定が抜き取られ溶解しはじめる。大学や研究機関が、中立なる学問の聖域であると妄想する多くの偽善的学者は、これら抽象概念とその関係間の論理構築を母語で運用しても、欧米言語精神に伍していけると信じているようだ。が、その勘違いは社会をクラッシュに導いてしまう。結果がまずいことになっても自己の犯罪性は棚上げし、学際的な研究が不足していたなどと無責任に嘯くのは見えているが。
第二は、概念思考の崩壊という過去の経験則が教えてくれるものである。明治の近代化をいそぐあまり、その過程で、母語精神と欧米言語精神との思索の根本的差異をあいまいにしたまま欧米型論理を真似て概念思考を運用していった結果、最後は敗戦で破綻するほかなかった政治・経済のあり様。また、それと同時にパラレルに現象していった日本の戦前美術史や京都学派を筆頭にした哲学史の硬直した観念空洞化のわかりやすい崩壊例を西田の世界的世界形成の原理や当時の日本哲学雑誌ナチス文庫にみるからである。戦争は、政治・経済の一形態にすぎず、芸術文化はそれらの反映であるという見方に立つならば、おそらくあの敗戦がなくとも、母語言語精神への深い洞察のないままに、膨張しきった当時の虚無的概念空間は、ちがったかたちで、遅かれ早かれ、同規模の崩壊に向かうしかなかったはずだ。
ところが、戦後には、抽象理論の構築は空虚な言挙げにつながるという母語精神と欧米思考との差異の問題は追求されるどころか、その問題は封印されてしまった。そこには、敗戦につづくGHQの占領政策もおおきく影響しているだろう。しかし、もともと、宣長が排撃する漢意(からごころ)のように、近世以降、あるいはそれ以前からわたくしたち自身に内在している漢意(からごころ)というもの。そしてそこから洋意(ようごころ)へ敗戦を機に変身してしまう*ナリスマシの傾向性にもその過半の原因が求められるように思われる。
儒学全盛期にあった宣長の指弾する漢意(カラゴコロ)の蔓延にくらべ、現在はそれをはるかに凌ぐ洋意(宣長に倣って仮に、ヨウゴコロとしておく)全盛の時代である。欧米文化がその圧倒的に優位な軍事力、金融力、近代自然科学や情報技術力を背景にして全世界を圧倒しつくし、それを受けての地球的規模の事態であるが、近代自然科学ひとつ例にとっても、その受容と応用にみられるように、わが国では、もはや科学は、ユニバーサルな普遍原理として受け止められてしまっている。表立って、その成立根拠と限界を母語による言語精神で問いかける者など例外中の例外か、よくても奇特な話のひとつくらいで片付けられる時代だ。さらにいまや、ITの拍車もかかり、欧米の尺度だけにもとづく世界標準の一元化された学問システムを中心に、ふたたび、わたくしたちはナリスマシ族主導のコンセプチュアル思考の暴走にまきこまれ、戦前以上の空洞化の極限にまで進もうとしているのが現状である。
このまま、両言語精神間の思索の差異の自覚なくして事態が進行していくようであると、その結果は先の大戦以上の、悲劇的事態を招くだろう。次に待ち受けているクラッシュは、政治力学の一形態にすぎない戦争とは、まったく違う想像もできないかたちをとって顕れるはずだ。
だからといって、過去から未来にわたっての印欧中の文化や近代自然科学を排斥しようというのではない。ここでは、普段なじんだ母語による思索を深めて、そこで練られた視点からそれを梃子に、ナリスマシではなく、母語言語精神の相対化された時にあらわれる弱点をも自覚した上で、現在を批判的に思い込みを排した冷徹な論理でもって組み立て直す作業なくば、自らの言語精神は病んでしまうという、どの言語文化圏にも妥当するあきらかな原則を述べているにすぎない。この問題を等閑視したままにすると、わたしたちの意に反し、気づかぬうちに、学問という権力を背景にしたナリスマシ族が手引きのもと、戦略的な外圧がかかるのは必定であり、その病の度合いに応じて、クラッシュの惨状もまた大きくなってしてしまうということである。いくぶん観念的になってしまったが、経済・社会の枠組みもとうにその傾向を示している。また、個人的なことではあるが、現代美術シーンにおける表現の有無をめぐる両言語精神間の葛藤は、視座の置き方をまちがえると正反対の結果を生じるものであり、瞬間瞬間、感情を排したところでの判断をせまられる目の前の現実問題である。

ちなみに、上に意図的に提示した「一本の棒のごときもの」は、線の一部であろうか、それともやはり棒きれか、引っ掻き傷であろうか。これを使ってなにか現そうという前提にたった上で、線と解釈すれば、描写表現のシステムに属する中国・欧米型の抽象概念思考(あくまでナリスマシの視点からである)がはたらきだす。一方、棒かあるいは掻き傷として具体的な存在物としてうけとれば、そこにそれを縁起として、その「物」自体から全体的視点に聴き入り、そこに添った物付けをしていこうとする波状口縁尖底器の時代から現代モノ派にまでみられる、母語による具足的な言語精神がはたらきだす。
あまりに単純化しすぎて、わかりにくい例になったかもしれない。(コンセプチュアルアートに属するイタリアのルーチョ・フォンタナのようにキャンバスの物理的ナイフ傷をそのまま作品として提示するものもある。がそれはここでいう主客未分化の全体的視座を生み出しはしない。あくまで概念としての反芸術であり、オブジェクト芸術なのである)。しかし、ここでは欧米型言語精神と母語言語精神というものがわたくしたちに同時に存在しており、このそれぞれの受け止め方による言語精神の発動のしかたは、結果として、まったく異なった世界像を結んでいくということを察していただければよいのである。
そして、この「一本の棒のごときもの」になんでもいいが、ある抽象的「概念」を置き換えてみるといい。その「概念」に対するわたくしたちの思索は、この「一本の棒のごときもの」に対すると同様に、やはり二つの方向性をもってはたらき出すことが分かってこよう。どんな国の言語圏においても、「物」と「言」へたいする言語精神のアプローチというものはまったくパラレルな動き方をしているのだ。わたくしたちの母語による具足的な言語精神は、ことばを具体的な言=事として、その「ことば」自体から生まれ出した全体的視点に聴き入り、そこに添った「おもひ」がはたらきだす。すくなくとも母語言語精神のはたらきが昇華されたところの和歌・俳諧においてはそうだ。ことに連歌・連句はこうしたはたらきそのものが主導したところで成立している。ところで、「一本の棒のごときもの」を描写のための線としてとらえれば、その描写における構成部分としての線・面との関係性こそが見られていかねばならない。それと同様、「概念」にたいしては、概念の本質定義と、そのほかの概念や判断との関係性、論理性というものを主体に見ていかならなければならないはずだ。そうでないと概念の文脈のなかで果たす役割、意味はなくなろう。他との関係なしには概念自体は定義された意味機能しか持たないのである。しかし、母語に暮らすわたくしたちは、概念思考にナリスマシしできたとしても、ついつい、やまとことばに対すると同様に、関係性を無化して、その概念自体に「物」そのものと同様の深い意味合いがあるかのように錯覚して、なにもないところに深く聴き入ってしまう。その背後にはあらゆる言葉には言=事としての具体性があると観る母語精神がはたらいてしまうからであろう。こうした思索の方向性は、論理的な抽象概念思考とは正反対のものである。概念定義の奥にさらに意味があると求めていく心性は、えてしてそこに社会経済条件を反映した共同幻想に支えられたとき、概念に神秘的な意味を付与してセクト化の傾向を呈し、場合によってはカルト化まで必然してしまう。欧米言語精神のうみだした美学視点にナリスマシ、抽象概念のもとで業界内用語に閉じこもる美学学会や、その他多くの思い当たるはずの現代の何々学会といわれるものの大半がそうであろう。概念にそれ以上の意味性を賦与してしまうこの構造は新興宗教の題目の果たす役割となんら変わらない。「純粋経験」から「絶対矛盾的自己同一」へそして「大東亜共栄圏」から「一億総玉砕」への道程は遠いものではなかった。それはたんに政治経済の安易な結果論であるばかりでなく、母語言語精神と、抽象概念による思索のありかたの相違を明確にできなかった明治・大正・昭和という時代精神のありかたに起因されるべき現象ではなかっただろうか。そしていまでもわたくしたちはこの思索ベクトルの違う二つの見方を一人の頭のなかに両立させ、状況に応じた使い分けをしているのである。
ひとつ 「余白」ということばを例にとってみよう。「山水画は、日本文化の特徴である「余白」を活かした芸術である」などという使われ方をする。また、「余白の文芸」とよばれる俳句がある。能のように、「余白」は神秘的なものとして、ものいわぬことで観るものを呼び込む表現だともされる。こういわれると、誰しもこの深い意味あいを蔵していそうな「余白」に納得してしまうしかないだろう。しかし、もともと「余白」とは二次平面上に構成されたコンテンツのマージン=余白のことである。「余白」は二次平面という現実を捨象・抽象化したところで成立した平面空間に、描写表現されたコンテンツを構成する際のレイアウトデザインに関する用語である。(三次元空間であろうとそこに抽象化原理がはたらいたものならば、二次元空間と同じ指摘が妥当し得る)。時代とニュアンスの差に比して、そのことばの持つ原理と、それが意味する領域においてはマージンも余白もそう違ったものではない。つまり、「余白」ということばは、ここでいう母語による言語ルールからは外れて、抽象化原理を前提とする言語精神にナリスマシした視点からみた抽象概念の一種なのである。再三いうが、この国の言語精神は言挙げせぬ国として、抽象原理によらず、宣長いう「もののあはれ」としての世界のひらき方をする。それを、美術評論家のみならず、制作者側までも「余白」に神秘的な意味を附与して、そのまま伝統的な日本の芸術作品を評価・制作作業をするときのキーワードにしてしまっている。これでは、先史時代の縄文の意味も和歌・俳諧の意味もそして多くの芸術作品の意味も探れず、未来の作品制作もできまい。母語言語精神の躍動がうみだしたひとつの結果にすぎないものを抽象原理によって考えようとしているのである。「余白」ということばを持ち出した途端に、そこで、思考停止に陥る。それ以上「余白」ということばからチカラを聴きだすことなどできないであろう。「余白」は題目と化しているのだ。抽象化をしないという母語の言語精神は、余白を生み出そうとはしていないし、余白に語らせようともしない。反対に、世界は、奇すしく怪しき、ひしめく具体存在で成り立っており、なにもない空間などはじめから存在しないことを知っている。歌・俳句にしても、言に聴きいり、言挙げせずに、事にそって成る具体存在をひらいていこうとはしていても、余白を創り出そうとはしていないのだ。「余白」とは、ナリスマシ視点で観た時の、思考停止した己の頭のなかの空白状態を再帰的に視たことばにすぎないのである。母語による思索を深める際の障害にしかならない用語のひとつなのである。
イスラム思想や東洋哲学に通暁していた井筒俊彦や、他の叡哲も教えているように、対象との一体感を大事にする東洋一般の思考にとっての、欧米的概念思考の本質というものは、物のいのちをころしたところでしか成立し得ない死の思想ともいうべきものである。まして言挙げせぬことで森羅万象をあるがまま、動的に受容していかんとする母語による言語精神にとって、対象と観察主体とを分けて捨象・抽象思考していく西欧的理(ことわり)思考のあり方は、物にそって言を深めていくべきわたくしたちの心性からみると、逆に、思考を停止してしまった考え方であるといえる。そんな欧米思考法で母語言語精神を封印し続けることなどできるはずがないのであるが、そもそも、これら両者の思索の方法の違いの確認なくしておこなわれているのが、この国の学問、芸術である。これらは、自然科学がそうであるように、中立客観を装いながらも、実はその拠ってたつプラットフォームは、当該社会のいだく功利であり、保守であり、幻想という楽観的合目的性に還元される類のものである。ここは、まず、有史から先史にわたる古代の論理を尋ねて、母語と、欧米言語による思考の違いを明確化し、それを自得し、梃子としたうえで、勘違いにもとづいたナリスマシ族には降板していただき、外に向かってはナリスマシの半端な視点からではなく、冷徹に未来を見通す独自の徹底した戦略的思考で臨まなければならない。
しからば、「言挙げ」とは果たしてなんであろうか。豊田国夫によれば、古代文献では、特別表明とか、忌ましめ、謹み、などとの関連用法とされている。一般的には個人の意志を明白にする態度であり、それは御杖のいうように神を殺すことにつながり、忌み、慎むべきだと受け止められている。 「言挙げ」した結果、神の意志を越えてしまい、命を落としたとされる倭建命。しかし、その彼の 「言挙げ」という慢心を今日解釈するように個人的な心の存り様にのみ還元しつくすことは間違いである。その受け止め方は、人間という主体が道具として言葉を操り、表現やいのちもその基体に所属するとする現代的な解釈から出たものにすぎない。古代文献に散見される「言挙げ」は、それ自体への言及もタブーとされていた周知の基本不文律のはずで、古代文献の数少ない記載の分析からのみ、その本質を解明することは難しいであろう。「言挙げ」はモラルなどに還元し尽される問題ではない。それは西田幾多郎が、時局の要請で「我国特有の主体的原理は己を空うして他を包むことである」といって東亜共栄圏思想の根拠とした理論にまでも繋がってくる社会も個人も含めた広い領域にかかわる問題であり、なにより、もっと、深いそれこそ「事挙げせぬ国のメタフィジカ」ともいうべき「言」と「事」と「物」との関係の哲学的な根本問題でもある。
「物」を「事」を対象存在として概念思考に絡めとった瞬間に「物」はそれまでの輝きを失ったただの物質存在となる。同時にその「物」を対象存在に貶めた、物のひとつである「人」もまた、観念的な存在に貶められて、そのいのちは掻き曇って死に至る。あらゆるものをあるがまま動的に受容しようとするのが無文字時代の言語精神である。当時のひとびとにとっては、「言挙げ」する主体を前だししたり、抽象化したものの捉え方や表現が何をもたらすものなのかあらためて説明する必要もなく、みなよく知っていたであろう。
ちなみに、「言挙げ」の「挙げ」とは、連歌・連句における最後の七・七を指す「挙げ句」の「挙げ」と同様に、「こと(言=事)の終了を指しているだろう。「言」を「挙げる」とは、ある見地を設定し、その論理でもって「事」を割ることになる。その見地が慢心という主体の設定であれ、事象を対象化することの意味への省察を忘れてしまった現代の科学的主観の設定であれ、観念的主体が設定されて、「言挙げ」となった瞬間に、そこで「言」と「事」は分離し、「事」はおしまいになる。これが、連歌連句の座の出来事ならばよいが、リアルの世界では、「言挙げ」とともに、永遠という無限の変転を重ねている事象のイマは途切れて「事」は終了し、死んでしまう。その神話的に解釈されたわかりやすい例のひとつが、倭建命の慢心により、「言」が主観に属してしまった「言挙げ」の事態であろう。倭建命の「言」が、慢心する主体を設定し、同時にそれに対応した事象を主体と同様に抽象的な対象と化してしまったのである。そこでは、本来主観にも、客観にも属していない「事」世界において、「言」は「事」に添ったものとならず、観念となってしまい死を迎える。
そして、この「言挙げせぬ」という禁忌法は文字という「言」を固定化する装置を導入したために、言挙げにつながりやすくなったはずの万葉以降のひとびとにもタブーとして継承され、いまにさえ連続してわたくしたちの基本的な不文律として活きている。それは、当文字考でも触れたように、文字導入に際し、世界でも類例がないような表意と表音のまったく異なるふたつの文字システムを並存させ、母語の本分を「かな」によってそのまま活かし、抽象概念は「漢字」へとふりわけて、母語精神のちからをそがないようにしてきた、先人の努力と、賢明さがはたらいた結果に他ならない。そこで、一見、抽象概念や翻訳語であふれかえっているいまにおいてさえ、これら現代語の基層には、古来よりほとんど変わっていない母語精神が温存され、肝心な局面では、その母語精神が強い規範力を発揮して前面にでてくる。
また、これに似た不文律は日本にかぎったことではない。ネイティブアメリカンのある人に、ティッピー(インデアンテント)に招待を受けたとき「わたしたちは、白人の考え方をキ印と呼んでいる。彼らはわたしたちが禁じてきた頭だけでする思考、抽象思考に走るからだ。わたしたちは・・・」と、みづからの分厚い胸を指差し「胸で、体全体で」そして、ティッピーの中央の炉の、そのまわりのなんの覆いもかけず先祖からそうしているという意図的に残した表土を指して、「この大地とともに考える」と強い調子でわたしに語った。頭のなかで概念論理を構成した考え方がいかに、身体を媒介にした連関する全体世界という「物」の輝きを死へ追いやるものなのか。この問題は、自分たちが頭の中だけの概念思考をタブーとしていても、そんなタブーは未開の風習だと一蹴する現代人に、否応もなく滅亡の淵にまで追いやられてしまった彼らにとって、いまなお、わたくしたちには想像もつかないくらい苦しく切実な最大の問題でありつづけている。これは西部開拓時代の話ではなく、現在の話である。そしてそれは、今日のわたくしたちの母語精神の基本にもかかわってくる問題である。
主題にもどす。この器は絵、つまり描写という抽象化への誘惑には一切のらず、なんらの表象化をも強く忌避している。そのタブーのはたらいた証は、器の表面を、表現するための基体とはせず、反対にイメージ(イメージとは観念であり、ありとしあるのものを直く受容する際の妨げとなるものである)を寄せ付けないよう、物へ具体的な縄文を添わせて器のかたちと一体化させていく(貝殻という具体物による条痕文も含む)この縄目(条痕)のはたらかせ方にある。縄文時代のこの縄目がアボリジーニの抽象文様やシャイアンのティッピーに描かれた部族ストーリーやトーテムのように、その部族の物語り性をもつかどうかはわからない。しかし、ここで重要なのは、縄文にはたらいた思想は、陰陽という理法の許で、冷酷なまでに抽象表現を極めつくした殷・周の饕餮(トウテツ)文の思想とは、抽象化プロセスの有無、すなわち表現描写というプラットフォームを置くか置かないかという意味合いにおいて、まったく対極に位置した造型哲学であったということである。
三次元世界を二次元世界へと抽象し、器表面を表現タブローとみなして、そこへ陰陽原理を線刻した殷・周の抽象世界。それに対して、すべてをありのまま受容せんと、捨象化、抽象化、イメージ化をタブーとし、具体的な物へと物を這わせていった縄文思想。(どの国の古代土器にもみられない独自のものとして、縄文前期からみられる口縁突起に施した人面イメージ表現の意図的な破壊などには、このタブー思想が凝縮されている)したがって、この両世界が受容する世界は山や星や川の輝きひとつとっても、甚だしく相が異なった内容となっているのである。ただし、この国もやがて中国朝鮮の影響の増大と共に、弥生と呼ばれる時代が、縄文に取って代わられる。そこでのものの表現は、弥生土器や同時代の銅鐸に施された文様や絵にみてとれるように、中国朝鮮の影響をうけて土器表面を二次元タブローとして扱い、また縄文ではあまりみかけなかった鹿や、争う人々を主題もとした線刻表現となっていく。やがてそれらは、その後の船や馬、鳥を描いた装飾古墳の彩色(彩色という色による構成表現もまた、抽象化のプロセスを経たうえでしか可能とならない)画にとって換わられ、ついには高度抽象化原理でうみだされた漢字を受容した辺りで、印中朝鮮思想の影響を濃くした正倉院壁画の時代を迎えることとなる。
いささか繰り返しになるが、そのはたらきがまったく相反する言語、たとえば、西欧近代のように表現のために他視点を捨象し、抽象した結果のパースペクティブな造型視点に必然するに至った抽象概念で論理思考するインド・ローマン語系文法。他方、抽象を排して、物にそって聴き入っていくわたくしたちの母語の思索のはたらき。その両者はまったく相の違った言語精神にある。その言語精神の違いは、古代土器の文様や絵画に直接反映されている。他言語文化圏とくにインド・ローマン語系の古代土器は、構築的な性格を備えたフォルムへの傾向をもつ。そして、そこへ施す文様や絵は、タブローとしての器と切り離すことが可能であり、独立してはたらく文様や絵として機能する。一方、この尖底器に代表される縄文土器は、器を縄文のタブローとしない。両者を切り離すことはできないのだ。文様を分離すれば形自体が失せてしまうのである。

「最後の審判 修復作業風景」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 Leonardo
da Vinci
現実の抽象空間である一点透視画法の代表例。 撮影 有
ところで、絵画とはタブロー(以下、タブローを広義の意味合いで支持体として使用)を前提として成立している。古代土器であろうが、アルタミラの洞窟壁や大伽藍の天上や壁であろうが、近代のキャンパス地であろうがタブローはそこへ表現を受け止めるメディアとして、現実を抽象した観念のゼロ場として機能する。三次元の立体を二次平面へと抽象し、つまり現実を捨象して基体としての二次元へ落としたタブロー上で、さらに抽象化された空間形式である、画面外に一点に収束する視点をもたせたパースペクティブな図法でもって、共同幻想や個人の観念イメージを映しとったものを、特にルネッサンス期の抽象化された空間形式図法で構成化し描写されたものを一般に、わたくしたちは西欧絵画とよんできた。この描写表現の原理プロセスは、時代の進展と軌を一にして西欧言語の表現法とは常にパラレルな関係にある。西欧言語では、日常経験をふるいにかけて普遍的意味だけを抽出し、そこで得た抽象概念をさらに最上位の抽象化されたゼロポイントの極点=神に保証され、もはや神と同等になった視点のもと(いや、ダ・ヴィンチのこの視点はすでに神から奪い取った視点であった)
やはり現実を抽象した観念のゼロ場上で抽象概念を構築・論理づけていく。一方、抽象的視点と観念の場を設定しないことで世界をありのままに輝かせようという言挙げせぬ国において、普段そんな自覚もなく、わたくしたちは翻訳抽象概念による欧風論理思考もまたじぶんたちで可能であると信じ込んでいる。だが、遠い極東の異国のかってなおもいとは異なり、西欧言語には数式に似た、あるいは確固とした遠近透視図法に代表されるような徹底した抽象論理思考がはたらいている。そしてそんな欧米の抽象思考は、その一つの現象である美術において古典的なパースペクティブ視点が廃棄されてからも多様な展開がありながら常に同じ思考が一貫してはたらき続けている。キュビスムとかフォーヴィスム、ダダイズム、シュルレアリスム等の近代芸術思潮はここで省くが、その後の物を対象とした物質(オブジェクト)芸術や概念芸術(コンセプチュアルアート)においては、その名自体が直に彼らの歴史的思考の本質を示していよう。ひところのインスタレーション、パフォーマンスにおいても抽象化された時間のベクトルが加えられただけであり、さらに彼らのいうイメージを拒否した反芸術でさえ、描写表現の成立する抽象化による場の原理は古典絵画時代とすこしも変わっていないのだ。当然今日のIT化で、これまでのポップアートや日本のアニメを巻き込んで汎世界的に流行しているメディアアートやコンテンツ芸術においても事情は同じである。
そこに対して東洋絵画の特徴は、西欧絵画のこのパースペクティブな一元視点から構成されたものとは異なり、多次元視点を同一画面に共存させる構成にあると一般的に言われている。その例によくひかれるのが中国に発する山水画である。西欧画の一元的な視覚重視の方法に対して、
一体化の観点から多元的視点を一元的にまとめず、それら多彩な視点をも同時に全体的な視点へと組み換えるいわゆる高遠、深遠、平遠の各視点を同一画面にまとめる三遠法と呼ばれる手法がそうだ。ここでは多角視点を動的に受け入れて全体性を受け入れていこうというはたらきがある。しかし山水はあくまで山水として世界の取捨抽象のプロセスを経て、現実を二次平面へと映し、観念を再構成してイメージ描写をした墨の絵である。そこには、二次元化にともなって捨象されてしまった世界がある。
ところが波状口縁尖底器は、一点一線の描写をも退けている。そこに施された縄の目は、精確にいうと、デザインとしての文様表現でもない。抽象化にともなう捨象を一切しないで器のひらく宇宙と一体化せんとして具体的な係わり合いを求めていった姿そのもの、その姿勢が炎によって刻印されたものである。こうして形成された器は、それ自身が表現を忌避し自己主張を避けるという具足的な精神へと昇華する。そこにおいて初めて。あらゆる具体存在を、あるがまま共存させて受容するということが可能となる。そのためか、もはや人さえ寄せ付けぬまでに表現を極めつくした殷周青銅器とちがい、この尖底器は、威圧的でも、権威的でもなく、あるいは、奇怪でもない。おだやかな口縁に波をたたえて、なかほどでゆるく膨らみ、そして、なだらかに逆三角錐に窄みゆくやわらかなフォルムを持つ。そこへと縄文が一体化を果たしている。
かくして、波状口縁尖底器は器の本質として物を入れる空(うつ)の機能をもつのみならず、その器そのもののあり方からして、すでに空(うつ)なる存在となって在る。捨象しないはたらきが在るゆえに、ブラックボックスとして、多様な視点をもったものさえ共時的に受容し、物、事を包み込んでいけるのだ。それは、「て・に・を・は」に代表される母語の世界受容のありかたと同じである。いや、逆にこの器が、母語精神を生み出しているとさえ言い換え得る。そしてこの精神は、「己を空うして他を包む我国特有の主体的原理」と戦前、西田幾多郎にいわしめた問題の「世界新秩序の原理」論文やポストモダンの世界的潮流にもまれた後、70年代に生み出されたモノ派の一連の作品など現在美術の最前線にまで数千年ものあいだはたらき続けているのだ。
日本列島の長い美術史のなか、縄文後に母語精神の自発的なはたらきで成ったものは、このモノ派の美術と現代舞踏以外には見あたらない。そのほかはすべて、輸入されたものをベースとして発展してきた。一般に美術史で扱われている日本美術は外国言語文化圏で発生した彼の国の言語精神が反映した作品の直輸入か、物真似、よくいってそれらの国風化されたものである。いかにもわが国独自の芸術絵画が華ひらいたといわれている桃山期や江戸初期の山水画さえ、厳密にいえばその例に漏れたものではない。日本美術史は独自に自発的に発展進化してきたものではない。弥生以来、そのつど、移入された芸術思潮を日本化、和洋化し、それを繰り返してきた反復の歴史である。それらを単に時間順で見て、並べたものが日本美術史とされている。
縄文以降の具体例をいくつか取り上げてみる。銅鐸や土器に遺された線描主体の弥生絵というものがある。そこではもはや捨象・抽象を避けた縄文一万年のタブーは無視されてしまった。三次元を二次元に抽象したイメージ表現となったその絵は、器や銅鐸というタブローと切り離しても成立する。この絵は中国・朝鮮の言語メンタリティーで描かれたものだ。それ故に地域的な広がりをもたずに銅鐸の消失と軌を一にして急速に消滅する。そのあと、古墳の彩色画が出現するが、これもまた高句麗や中国絵画のダイレクトな影響を受けていることはあらためて説明の必要もないだろう。古墳の石壁を二次平面のタブローとして、初期の幾何学文様、そして鹿や鳥、星座という外来思想のモチーフで描かれている。終局期には高松塚古墳壁画にいたる。このプロセス検証から見えてくるものは、影響をうけたなどという生易しいものではない。原理の違う他国の言語精神に拠った表現をそのままもってきて、それをモディファイしただけのものである。古墳時代が終焉したあとは、漢字という高度にシステマティックな文字絵が輸入され、ここから列島美術事情は一変してしまう。
なお、逆行するが、この器より下ること凡そ三千年後、縄文中期には、現代人が生命感溢れると評価する火炎式土器がうまれる。この波状口縁尖底器とくらべると、やや、ゴシック的な表現に傾くきらいがありはするものの、たしかにあのプリミティブな躍動美は美しい。対して、この波状口縁尖底器は中期の基本モデルのような存在であり、火炎式を評する生命感溢れるといった通俗的で、近代審美感にもとづいた用語など拒否して超然としている。(*中国やインドローマン語系の用語で、この無文字時代精神のはたらきを分析することは、本来、原理的に不可能な作業である。たとえば火炎式土器の評価にみられるような、生命力あふれるといった形容をこの器は拒否してしまう。なぜならば、その漢語的造語あるいは、LifeやVitalityという欧米語の翻訳語にはすでに主客を分かつ概念的意味作用をもつはたらきが作用しているからである。)
この器は概念を忌避するはたらきでできあがったものである。つまり、この尖底器にはたらく法と同じ法がはたらく無文字時代言語に根をもつ古言・やまとことばで、物にそって思索を深めていかなくては、その本源にせまることはできない。欧米型の概念論理思考の流れをくむ考古学はじめ、文化人類学、民俗学また、芸術美学など日本の従来の学問のほとんどの分析作業は、この点をクリアできていないので、じぶんたちの足許の肝心な精神が汲み取れていない。
*スウィッチング: だれだったか、わたくしたちは文字使用において漢字という表意文字とかなという表音文字を器用にスウィッチングしながら使用していると的を得た発言をしていたが、この用語を借用した。文字使用においてばかりではない。わたくしたちは、肝心な世界観を結ぶさいにおいても、原理と、そのプロセス、結果がまったく異なる思考法をスウィッチングしながら暮している。近世は宣長いう漢意と母語による言語精神間で。そして現代では、欧米言語精神と母語言語精神との間で。
*ナリスマシとは:以下に宣長いう近世の漢意《カラゴヽロ》に視座をおいたものの見方と現代の欧米を基準としたものの見方、殊に抽象化された概念思考に視座をおいたものの見方とを合わせもった意味として使用した。
「漢意《カラゴヽロ》・(洋意)とは、漢國(欧米)のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非《ヨサアシサ》を論ひ、物の理(リ)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍《カラブミ》(欧米)の趣なるをいふ也、さるはからぶみ(欧米語)をよみたる人のみ、然るにはあらず、書(英語)といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみ(英語)をよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國(欧米)をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年(百年)にもあまりぬれば、おのづからその意《コヽロ》世(ノ)中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろ(欧米型の発想)もたらずと思ひ、これはから意(欧米の思想)にあらず、當然理《シカアルベキコトワリ》也と思ふことも、なほ漢意(欧米的視点)をはなれがたきならひぞかし、・・・」
- 宣長 ( )内は哥座が追加
二、
万葉歌にみる 「多麻(タマ)岐波流(キハル)」 たまきはるという永遠性と完全性に関する論理が、すでにこの器にはたらいている。この論理は「言挙げせぬ」ことと表裏の関係にある。
その法が、球体の変数処理された波状の口縁をもつ尖底のこのカタチとなって顕れている。この論理は、未然をイマ・ココへと繰り入れ、日本語の本質である汎メタロジカルな言語における全体的視座をうみだす球体論理ともいうべきものだ。「たまきはる命に向かう」という古言にはたらく論理と同じはたらきを得て、それまで一塊の土にすぎなかった器は、いまや、たましいの球体としての完全無欠性に向かい、その果ての完全無欠さを繰り入れた華として身をひらき、イマ・ココの永遠性のなかに成って存る。器は、個でありながら、その個が全体世界を湛える「一」として保障されつつ、かつ限りないその全体世界の涯へと無限に進行していく物=言=事として、パラドックスにみちた永遠性の動的論理を湛えている。
「言挙げせぬ国」と詠んだ哥座冒頭に牽いた人麿が歌集、その反し歌は、「言霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞ真福(まさき)くありこそ」とつづくが、この前後のテクストを読み合わせてみると、そこからは、この国の言(こと)には「多麻(タマ)岐波流(キハル)」という真淵が冠辞考でいう永遠性の論理、あるいは、文字通り「タマ(玉あるいは魂)・キ(来)・ハル(張る及び春)」という永劫回帰の論理がはたらき、言=事の真福(まさき)さを保障してくれている、そうした論理構造をもった古代の法のはたらきが「コト・タマ」であるという人麻呂の深い思索が読み取れる。それは(ここでは離別に際する歌としての人麻呂の置かれた状況分析には立ち入らない)中国という外国を意識した上で、一種のメタ視点のもとで自国のことを語っている。また「言挙げせぬ国で言挙げする」といった人麻呂のことば自体は、「クレタ人はみんな嘘つきだとクレタ人が言った。それは真が偽か」という論理的パラドックスにも似てはいる。が、しかしそれはパラドックスでもなんでもなく、言挙げそのものでもない。あくまで「言挙げせぬ」ということを彼独自の対語的な調べに乗せて、強調するはたらきを持たせた対語手法からでた詩語である。まして、単なる外国へ対抗する偏狭なナショナリズムからでた主義思想ではない。母語精神の自得にもとづいた冷静な思索が詩的に昇華されたことばである。
真淵の「語意考」に、
「ひとつこれの日いづる國は五十聯(いつら)のこゑのまにまに言(こと)をなして、萬(よろづ)の事を口(く)ち豆(づ)からいひ傳へるくに也、それの日放(さか)る國{*もろこしをいふ}は万づの事に繪(かた)を書てしるしとする国也、かれの日の入國{*天竺をいふ}は五重聯(いつら)許(ばかり)のこゑに繪(かた)を書て、万づの事にわたし用る國也、かかるに比國にのみ繪(かた)をもちいざる・・・。」とある。
世界の受け止め方は、「言挙げをせぬ」ことを基本規範とする国の世界と、当時の、いや、いまでもそうであるが、唐や天竺のように「言挙げする国」、つまり、主客軸の設定のもとで幻じる(かた)絵、文字という表現されたものを第一義として世界へ対峙しようとする国とでは、その世界の見え方はまるで百八十度異なったものとなる。その差異が、この国の筆頭詩人・人麻呂にとって、常なる、あらたなる驚きとして自国言語精神への自負となり、あへて「言挙げぞ吾(あ)がする」と「言挙げをせぬ」ことによる「物」の耀き様を詠ましめたのであった。その思想は、言へと昇華され通奏低音として、彼の格調高い一連の歌の響きを支えている。
しかしながら、現在、このもっとも肝要な母語のエッセンスが見過ごされている。あるいは、忘却されてしまっている。この国は人麻呂が誇り高く詠うようにもともと「言挙げせぬ」国である。そして、その思想の源流となっている一万年以上にもわたる無文字時代言語精神のはたらきは、いまも、わたしたちの意識の底では、ほとんどかわっていないのだ。だが、古くは唐土、天竺、近代では、欧米の主客軸の設定のもとで幻じる(かた)絵、文字というものを第一義とする世界、そしてその文字にはたらく抽象論理世界の理(ことわり)にこころ奪われてしまい、肝心なじぶんの足許の言語精神のはたらきをふかく考えてみようとしない。それどころか、人麻呂の誇り、すなわち文字という繪(かた)をもたなかった背後にある抽象化を退けてきた「言挙げをせぬ」という意思を逆にコンプレックスとしてとらえてしまう。
さきほど取り上げた賢明な中村元でさえも敗戦体験からのコンプレックスからとはいえ「日本人の非論理的性格は、おのずから論理的整合性のある首尾一貫した思惟作用がはたらかぬようにさせている傾向がある。すでに古代において柿本人麿は『葦原の水穂の国は神ながら言挙げせぬ国』であると詠じている。そこにおいては、普遍的な理法を、個別的な事例をまとめるものとして構成するという思惟がはたらかない。」と、「言挙げせぬ」ことを否定的文脈のなかで語っている。
ところが、事実は、逆なのである。比國にのみ繪(かた)をもちいざる。- 繪(かた)とは、線、面、色、そしてそれが描写される媒体、いづれも現実を捨象・抽象してはじめて成立する一種の虚仮存在である
- つまりわたくしたちは、現実を捨象・抽象せず、そこで生まれる観念的表象を一切忌避し、そのことを基本心性として、て・に・を・はにみられるように、抽象的な概念知に堕ちることなく、瞬時の変化にも機敏に応じ、そのことで「もの」の耀きをあくまで具体的な物そのものとして、人工の手をいれず、動的にうけとめようとしているのである。そこにはたらく思索は欧米言語精神によるはたらきとは違い、世界を共時的に拓いていくことができるとてつもない可能性を秘めている。人麻呂は、それを自覚していた。
それから壱千数百年後、自らの「位相-大地」という作品をまえにして「これは人類がまだ知らなかったチカラだ」とつぶやいた男がいる。当時の日本美術界では異端に属していたモノ派に分類される関根伸夫だ。これをわたくしはエポックメーキングな一言と受け止める。
縄文一万年の一切の抽象化を排して来た母語による言語精神の核は、縄文メディアを失って以来、言挙げせぬこととしての歌・俳諧という言語メディアにその精神が受け継がれてきた。その精神が、ポストモダンの流れのなか、いくぶん偶発的ではあったが、ふたたびモノや身体そのものをメディアとして、地上に姿を顕した瞬間のことばである。抽象化をしないで、物が事と成る世界とは、弥生絵以来抽象化の嵐のなかに育つしかなかった日本美術界においては、経験でき得なかった奇異(くすしあやし)さにあふれた躍動する世界である。
「ことたま」をことばに精霊が宿っているとするアニミズム的後世の解釈は、「物」にそって、「言」に聴きいり、「事」を深めていくというわたくしたちの母語精神の思索に反している。それは、欧米近代主観主義のもたらした、すべてを対象化してしまい、そこでうまれるイメージ化された表象にとどまっている一種の思考停止の産物であり、また、あるいは儒教や仏教を受容した過程がもたらしたところの現象の背後につい神仏の働きを設定してしまう習慣や習俗にそまり、物にそって思索を深めていくことをわすれた俗信のひとつである。
「言(こと)」は、舌触りのあるこゑとして、奇異(くすしあやし)さにあふれた「物」のひとつである。こゑとしてことばを口にしたとき、「言(こと)」は、「物」として「物」へとはたらきかけ「事(こと)」と成る。その「事(こと)」に触れて、宣長いう「もののあはれ」が生じ、個々の身体を媒介にしながらも、そこで産まれる全体性の視座に与することで「こと」としての思索・思考がはじめて可能となる。わたしたちはそんな「事」を受容する「器」として存在する。そして、まさにそのはたらきを自得した土くれがこの波状口縁の尖底をもった「器」である。形而上の道(タオ)という威厳にみちた抽象原理を受容する饕餮(トウテツ)文を施した装置ではなく、あくまで背後に抽象化原理を設定せず、具体的な「物」としてある「言」=「事」のはたらきのままに、そのはたらきを直く受けとめる器である。
そんな波状口縁尖底器は、ここで事を受容する「器」として、言=事の真福(まさき)コトタマ(玉)を容器へと展開するにふさわしく、やわらかな球状の口縁をもっている。そしてコトタマの器としての動的球体の姿勢をとりつつ、時空を超越するというより時空を産み出しつつ、鋭く、永遠性のなかに屹立している。その姿はまた、「ながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかける」もうひとつのコトタマの器としての、わたくしたちのイノチそのものの姿ではなかろうか。
波状口縁尖底器に顕わになっている、ながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけるこの無限性と、ひとつの具体的個としてのイマ・ココとの関係式は、いまも、わたくしたち母語精神が拠って立っているロジックフィールドである。飛躍を懼れずにいうと、このロジックフィールドのもとに、中国を経由した印度哲学も受容されてきた。そして、そこに禅にみられるように、他言語精神の哲理までをも独自の華として咲かせている。この国の禅は、古代印度の抽象論理は遠ざけて、身体を切り口にした具体的な個と無限との具体的関係に軸足が置かれてきた。それはまた、この禅の影響を受けたといわれる山水画にその特徴が顕著にあらわれている。それは抽象化した表現法をとらずに、水墨による和紙へほどこす暈し・にじみという描写を避けた手法である。「物」としての和紙へやはり「物」である墨を添わせ、描き込まず、大胆な未然を残して、そこではじめて生まれ出すこの国独自の無限感覚は、何千年も前のあの波状口縁の姿をとった尖底器の無限感覚と融通している。涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかける動的球体の波状口縁は、それが三次元から二次元へとうつされて、暈し・にじみによる山水の無限感覚となった。この無限感覚におのれを這わせていく感覚は、和歌においてみればその例はいくらでも拾える。その適例は西行であろう。
行方なく 月に心の 澄み澄みて
果てはいかにか ならむとすらむ
山家集
この歌にはたらいているものは、隠棲の情ではない。無文字時代精神をロジックフィールドとした、あの波状口縁尖底器に顕わになっているものとおなじ、ながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかける無限感覚。そこへとおのれを同化しつつ、未然ゆえにこそイマ・ココが永遠であると動的に感じ得たところのパラドキシカルな歓喜の情である。それが、「な・ら・む・と・す・ら・む」と結んだ調べによく顕われ出でている。けっして心細さのならむとすらむではなく、躍動したよろこびのならむとすらむである。
しずかな水面へものを垂直落下させたとき、その落下点を心円とする水は、瞬間的に表面張力と重力から開放され、そこで、はからずも、みずからの究極の球体の姿を求めて撥ね踊る。その瞬間の、水のいのちの姿を留めた姿。そんな言い方もまた、許されるかもしれない。
三、
言挙げせぬ論理と永遠性の論理のもとには「束縛と解放の論理」がはたらく。それは物の作業現場からみた場合「敷く・別く・叩く・折る・解く・曲ぐ・接ぐ・返す・置く・撚る・捻る・縛る・掘る・切る・割る・接ぐ・打つ・廻す・研ぐ・合す・積む・踏む・分く・立つ・掻く・焼く・・・」という「〜ゥ」で終わる代表的二音節基本動詞を介して、あるいは「て・に・を・は」で包み、「畳語」でひびかせ、者が物へ具体的なはたらきかけに於いて成る「こと」の論理である。これらをそのまま具体的な現在美術の核と成し、「まえ・うしろ、ひだり・みぎ、うえ・した、大(おお)・小(お)、おもて・うら」などで身体を軸に言を具足化する作業は、束縛することで却って、物と者との現存在を解放し、今を永遠へと解き放つ作業となる。なによりもそれは、この尖底器が教える論理である。
束縛することで「物」が却って解放される。活きてくるというはたらきが存在する。まあるい土俵内に限られてこそ相撲が活きるように、「こと」にそなわる規範を「物」へ適用する。そうすると不自由ではなく逆に、崇高な自由感がうまれでてくる。また、このはたらきは以下のように多様な展開力をもっている。そのひとつが「繰る+返す」という反復行為である。金太郎飴のように、どの時を切ろうがその切断面からは同じ規範のもとに成った同じフォルムが姿をあらわす繰り返しの論理展開。その代表例が縄文土器である。一万年を超えて、(最近の考古学の成果によれば日本列島では、周辺他国に先駆けて16000年まえから本格的な定住生活がはじまったという-小林達夫氏)だから、縄文精神の源流はもっと遡る可能性はある。とにかくほとんど気の遠くなるような昔から、姿かたちを変えずに、同じ縄文の施された土器をつくり続け、使い続けること。この繰り返しのなかに、単調さではなく、実はゆたかな経験と開放感が生み出されてくるのだ。もうひとつのサンプルが万葉のときから詠い継がれている和歌や現代にいたる俳句の定型である。この定型を不自由と感じる歌人・俳人はほとんどいないはずだ。この縛りがあるから自由感を、そしてまれには、永遠への参入感まで得ることが可能となる。ときたま現代感覚で不定形の歌・俳句も試みられるが定型の強い規範力のまえには挫折するしかなかったし、これからもそうであろう。これらの例はまさに、「物」そして「ことば」に表現への縛りがあることでもって、却って、自由が獲得できるという母語精神のアプリオリな法のはたらきがわたくしたちの心性の基層に存在していることを証しているものだ。
一万六千年前であろうと、現代であろうと、人は自由をもとめてやまない。例えば、土器表面に、絵を描くことで自由感が達成され、それがまた神意に通じるものならば、古代人といえど、現代人とかわらないのだ。いやもっと豊かで緻密な思考をし、精確な作業もなしえていたのだから、絵を描くぐらいのことは、とっくにやってのけていたはずだ。しかし、無文字時代の言語精神は、弥生までの一万年以上にわたり世界を対象化してイメージへ持ち込もうとする誘惑を断ち切り、ここで描くという言上げにつながる抽象化-あるがままのものの輝きを消し去ってしまう主客軸の設定を自覚的に禁忌して、そこで全体的視座の生起する法に従い、描かないでいた。土偶という例外もあるが、イメージ表現された土偶の多くは破壊することを前提に制作された、否定のための存在である。その破壊に際しては祭祀的な各種意味が附与されていただろう。しかし、ここではその祭祀のあり方や意味は扱わない。なにより不明である。しかして、それら祭祀を生んだ背景そのものを、描写をめぐる言語精神そのものを、そこに的を絞って、カントになぞらえるならば、その精神の先験的形式自体のはたらきを、現在の母語言語精神を掘り起こしながら物にそって、動的な解明作業をしていく。実証性にその本質を置く近代学問の近似値的回答とは異なり、この能動的解明ともいうべき作業は、完全で客観的な確定が可能となる。なんとなれば、その作業自体が母語言語精神のはたらきによって、過去と未来とによって規定(束縛)された現存在を永遠の今へと解き放ち、未然を含めた過去と出会わせてくれるからである。その論理とは、置かれた環境もそこからひきだされる結論もまるで違ったものだが、以下西田が世界新秩序の原理でいう論理と重なってくる。「・・・永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。」なお、列島独自の形態であるこの波状口縁土器の類型として、口縁突起土器があるが、その突起に附された人面イメージも意図的に切断されている。以上のことからも先史時代精神に表現描写への禁忌がはたらいていたことは明らかであろう。そして、その古代のひとびとの描かないでいた選択が重要である。この一万年におよぶ積み重ねは、現代に、そして未来に、大きな意味をもってくるとおもわれる。
さらに言葉を継ぐと、母語に備わる規範-言挙げせぬ-という縛りのもと、こゑという身体性を有する「物」でもって、外延なる「物」とかかわり、そこで「物」へ聴き入れば、そこで生じ、発せられた「言」は、対象言語である個人的視座を止揚して、全体的視座を獲得したものとなる。視座転換が生じて、言は、真福(まさき)コトタマへと昇華するべくはたらく。それが人麻呂の反歌の、「言霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞ真福(まさき)くありこそ」の意であろうと思われる。
物にもことばにも該当する「事」にそなわる規範を受け継ぎ、それを反復する。それが、却って開放感あふれる永遠性の獲得につながるというこの事態は、説明がもどかしいが、ブランクーシの彫刻を類推していただければわかりやすいだろう。
実際、身体という「物」で「物」へとかかわりつづけ、「物」にこれらの規範・法を自覚的に反復適用し得たとき=「物」が法による構造化を果たしたとき、「物」は、対象存在である重力や不透過性なる物理的存在の特徴を消失し、つまり止揚されて「物質」は「物」として開放された自由の存在となる。それまでのよそよそしさはなくなり、「物」は内部の秘密を開示するに至る。そこから類推すると、縄文土器に縄の目を繰り・返し・附すという行為は、ここでいう束縛と解放の論理のもと、物の本質に聴き入る作業であったはずだ。俗語で俳句を「ひねる」というが、ひねった縄の目を這わせる行為は、やはり「撚る・捻る・這わす」などに類縁をもつ「・・・る」という二音節動詞で呼ばれていただろう。
また、役割というか、その意味するところのひとつには「連歌せず歌をも詠まぬその人のさこそ寝覚めの汚かるらめ」と俗歌にあるように、和歌の玉掃わきに当たるはたらきがあったのではなかろうか。一方、言挙げせぬという抽象を嫌うことで世界を表現未然にとどめて、物(言)にそって物(言)そのものを開いていこうと意思する縄文の縄の目の自由奔放な関わり方は、ちょうど和歌や俳諧の定型のなかで達成される奔放さにも似ている。モノ派の流れを汲む自身の表現を排した現代美術の作業視点から観た場合、縄文と和歌・俳諧とにはたらいている法は、ここで取り上げた母語基本法の許に成っていることを強く感じる。そこで果たされた具足世界は今日の論理や想像力では追いつかない、奇異(くすしあやし)さにあふれた物のひしめき合う世界であったにちがいない。
結び
母語という言語精神のそのすがたは、撚りあわせて縄文器に添わせた一本の縄のごときものである。先史・有史一貫して変わらないその精神は、世界を捨象せず、物・事に即して、自在に世界と係り結ぼうとしてくる。そうしたことばのはたらきが縄文のこの波状口縁尖底器を、そして時をおおきく隔て、いま在るひら仮名をつくりだしてきた。そしてこの言語精神の精華である和歌・俳諧は、漢字を借字としながらも、世界を表象し抽象的に秩序立てていく漢字の発想は受け入れてこなかった。漢字とともに持ち込まれた抽象概念は、律令などの現実面では、日常の分節形態を対象として捉え、概念の定着化が成功したように見える。しかし、それは大宝律令や昭和憲法のなしくづしの解釈運用などにみられるように、便宜的観点にたった表層意識のものでしかなかった。その場その場で、単にそうしてみたいというナリスマシの利点からみた運用であった。本来の、システムとして機能する概念ではなかったのだ。況や、わたくしたちの心性の核をなす和歌・俳諧において概念は本来の論理的機能を果たすことはなかった。
一方、陰陽原理や仏教理論にもとづく理(ことわり)思考というものが、いかに物・事のあるがままの輝きを奪い去ってしまうものなのか、それは、人麻呂が「言挙げせぬ国」と自覚し、真淵が「比國にのみ繪(かた)をもちいざる」と認めていたことからも明らかなように、抽象という近代概念のなかった時代においても、よく慧られ自覚されていた事柄であった。
ひとたび言が抽象されてしまうと、奇異(くすしあやし)さにあふれた物・事世界は顕れてこない。「物」の耀きの邪魔立てにしかならない観念の発生を抑え込むために、先史以来一万余年にわたり具体物へ具体行為をより添わせつづけて獲得してきた縄文の「事」体験。それは、いまも言語深層の共時的かつ通時的な記憶としてあり続けている。その後、やわらかく撚り易い仮名を得てからは、かっての粘土に代わる料紙という具体「物」へ仮名を捻り添わせ、恋愛にまつわる贈答歌の一旦カミにかかれたものを受け取った者が読むという手順の踏みかたにもみられるように、意味内容よりも、まさに「事」として成立するかどうかに比重が置かれ、「言」による「事」へ参与するという和歌や物語りを発展させてきた。そこに概念という観念の入る余地はあまりなかっただろう。
上の古筆は、いったん、ちいさく腕をひろげ、天から物事を受けとめ、そして、みづから回転して結び目をつくってはまたほどきつつ、自在に地へと空間をつなげて行きて目を離す間もなく多彩多様な展開をみせてくる。和歌の内容ばかりでなく、*記された仮名文字の姿にも母語精神のはたらきの型がみえ隠れしている。
そうして先史へ目を転じると、波状口縁尖底器に代表される縄文器に附されつづけてきた縄の目のあの自由な綾がある。それは、式、型という時代様式区分のもと、具足的に「事」へ与しつづけてきた原語精神の祖形の姿であろうかと思われる。抽象化のプロセスを経ずに、-したがって、デザインとして観念を表現した絵や文様ではなく、原始言語が世界とかかわりあう在り様、その綾の目がそのままうつしとられたものだろう。-
「まさしくそれは遥か先史の歌の姿ではないか。言挙げせぬこの列島の、フィジカとしての和歌・連歌にあたるものだ。」そう言い切り、眺め返すそのとき、「事」の視点が現れれば「今」と「尖底器」とを奇異(くすしあやし)き出来事のなかに出会わせてくれるはづだ。
この*「靭く言い切る。返し眺む。」という行為は、自身においては現代美術の柱をなす作業である。
*最近まで数字の代わりをしていたという沖縄の結縄(けつじょう)文字は、ここで扱っている縄文器に添わせた縄の意味するところとは、まったく関係がない。縄文字は単なるメッセージの覚書であり、それ以上の普遍的なシステムとしての文字の意味はもっていない。それは、漢字流入以前からあったとされる局部的な部族集団の内部メモにもいえることだ。その存在を全否定するものではないが、そしてその文字がシステム化されていたとしても、言挙げせぬことに特徴がある母語精神に照らした場合、「繪(かた)をもちいざる」ことを誇りにする心性からも明らかなように、基本的に抽象原理による繪(かた)=文字の制作は忌むべきという規範がはたらいたはずで、やはりこの列島の文字と呼ぶべきではないと考える。自分の日記は、独自文字と簡単な文法を創作して、記述していた時期があったが、それに近い。そうした特殊目的と局部用法の例外でしかないだろう。
*「靭く言い切る。そして眺め返す。」その行為が意味するところのものは、芭蕉におけるや・かな・けりの切れ字のはたらきと同じものである。ここでいう「言い切る」ことは、自己主張の意味ではない。物に触発され満ち溢れんばかりになったおもひを強く言い切ることで却って自己表出から離れることができるのだ。そうした許で、つぎに眺め返される視点は、もはや自己のものではなく全球的視座=母語独自の先験的形式というべきものを備えた視座=人麻呂がいう「こと幸く」としかいいようのない「事の視点」となって返ってくる。所与の物と、そしてはじめにそこへ働きかけた者とが一体化を果たして眺め返し、返されるという出来事が起こってくるのだ。これはたいへんに豊かで不思議なはたらきだ。不可思議すぎて、そのへんの理論分析はしたくない。そこへ踏み込む問いかけは許されてない感触をもつ。そのへん悟性がクラッシュしたその時、理性が顕現するというカントの崇高性の論理とは好対照をなす。カントの理性という抽象原理のまえに打ちのめされるich=崇高性の本質はそうである-とはまるで違った自覚が芽生えくるその不思議の出来事。言い切ることで確かに出会う原語深層の共時的な記憶の形式がある。そしてその原形を、形式まるごと物・事自体に語らせようとしてきたのがジブンの現代美術であり、また、踏むことを繰り返し踏み、「事」の視点が生起するまでひたすら踏み切ることで、はじめをはじめる舞踏がある。「〜し切る」ことで身体の今をひらき「事」に備わった原語深層の共時的な記憶の先験的形式と出会う。哥座(うたくら)ネーミングの意味もそこにある。そしてまたこれらの延長に有史と先史間にある深淵に一本の橋をかけわたさんとする今回の「言」による作業が位置づけられる。
主・客の分化による吾の固定化と対象化を避けて、物・事に即して関り結ぼうとしてきたこの心性傾向は、先史縄文の器に這わせた縄の撚り紐に始まる。そして一万年が経過し、やがて弥生という時代が、外国言語精神文化の生み出した抽象思考による合理的生産システムをもたらした。それはメタルであり弥生土器や後の土師器であり、稲作農業であった。かっての縄文は、それまでの経済基盤と社会構造におおきな変化をきたし、いままで生活に密着しながら、そこに部族のあるいは自己を関らせ、所与世界を輝かせるに適していた器の製造現場は失なわれてしまった。しかし、あの火炎式土器までつくりだした縄文精神は、そこで絶えてしまったわけではない。弥生以降の抽象原理になる舶来絵画・音楽はごく限られた権力者のものにとどまったが、大多数の庶民は初期歌謡や万葉集そして、その後の催馬楽からうかがえるように、記録には残らない、口ちづによる歌のいひ傳へや身体芸術へと向かっていたであろう。縄文以来、かた絵を忌避し続けてきた心性と言挙げせぬ精神性を守りながら・・・。
世界を観念に落とさずに、ありのままに見て行こうとする態度は、先史・有史を通じたものである。そんな心性があみ出した仕組み、装置というものが、観念化否定のため、イメージ表現の意図的な破壊として、先史言語精神がとってきた各種忌避行為である。そしてまた観念化未然のことばを一条に捻り上げて、物へとかかわり、すなわち粘土へと関り、最後に炎で刻印して仕上げる縄文器の製作方法自体であった。そんな先史の工夫に代わり、つくりだされたもうひとつのものが「言挙げせぬ装置としてのひら仮名」である。やがてそれは芭蕉の切れ字にまでつながっていく。切れ字は制作主体側の論理視点をいったん軽く切ることによって、物・事にそなわっている視点への移動を促す。そこでは物のきらめきを活かす工夫にみちていた先史言語精神の特徴をふたたび際立たせていけこととなった。
ひら仮名という自在に拠れる一本の縄を獲得してからは、メディアもかっての粘土から紙にかわり、縄文のDNAは和歌・連歌・物語・連句・俳諧でふたたび目覚め、華を咲かせることになった。先史時代の土器が何式・何型で判別されるように、57577という基本類型を踏襲しつつ時代時代の規範のもと、反復のなかに自由が求められてきた。この心性傾向は、メディアがペーパーからデジタルメディアに変化した今日において、2shのように、非人称型の大量カキコ現象のなかにも窺い知ることができる。
時代をとわず、規範のもとにおける自由の問題は、どの言語文化圏にもあろう。しかし、その言語共同体全体が、一万年以上にも亘り、概念化自体をせぬという規範を自覚し、いまなほ心性の核に、その規範が強く存続しているという例は、極かぎられた少数民族の言語文化圏以外には自分の知っているかぎり皆無である。古代中国では、陰陽宇宙の絶対性による自由と規範の問題がある。その原理が抽象化されて文様になったものが殷周青銅器に施された鬼気迫る饕餮(トウテツ)文である。そこから読み取れる自由と規範とは、すべてが天命という抽象原理が支配しているという冷酷無比なメッセージであろう。これに対して西欧では、美の世界と交換に、ダ・ヴィンチが神から奪い取り抽象化したゼロポイントの構成視点、すなわちルネッサンスという人間解放運動がもたらした描写表現における自由の問題がある。彼らがこの自由と引き換えにしたものこそが、モナリザのあの微笑みの意味する凄惨で底知れないニヒリズム世界である。
そのニヒリズムの超克を目指したニーチェは、ガリア船の奴隷に自由の問題を投影してくる。が、その自由とは、-言挙げせぬ-という規範から生まれる自由、ありとしあるものを無分別に受容し、そこから生起する全体的視座が与えてくれる動的ダイナミックさに与るという完璧な自由には、ほど遠いものがある。主客軸を仮構し、そこで概念論理を構成する世界の彼らが規範のもとでは、ニヒリズムからの脱却をはかりていくら漕ぎつづけようとも、言挙げせぬことでその完璧さを保証された自由の岸辺には、決して到達でき得ない。ヨーロッパというガリア船の奴隷には常に善悪の彼岸のそのまた彼岸にある自由なのである。
後書き
無文字時代精神に論拠をもつ、この三つの法の完全な解明は、フィジカとメタフィジカに、とんでもない革命をもたらすものと予想される。躍動感あふれる古代精神の独自論理の前には、遺伝子工学や宇宙工学の研究成果から「存在は情報である」と短絡されがちな、いまのわたくしたちの情報とリアルとの関係は、はじめの第一歩目からの再構築を迫られるほかなくなくなるだろう。あらゆる意味で、古言から垣間見えるわたくしたちの無文字時代言語精神というものは、宝の山である。しかし、歴史的にはこれらの法はまったく当然のこととして、革命でもなんでもなく無意識のもとに、わたくしたちの普段の母語に活かされてきたものだ。また、さらに深い思索の成果は、口伝などによる制禁と秘伝によって公にはされずに一門にのみ伝えられているものがあるはずだ。もともと母語にはたらく精神は概念化を拒むゆえに、普遍化した論理的公式を提示しない。身体を媒介にしなければ自得できない性格をもっている。そのため秘伝となる傾向はやむを得ないところだが、しかしそこには秘伝ゆえに、無念にも絶えてしまったものも多いだろう。いずれにせよ、折口のいうように、いま古代の論理を尋ねて、母語にそなわる法を自覚的に見直すことが必要である。それがそのまま自然科学や社会科学の革命となってしまうくらいに、古代精神の独自論理が拓いてくる世界には、自然科学世界をも凌駕していく無限の可能性が秘められている。
概念化なくして成る世界というものは、想像の産物でも、信仰の対象でもなく、いまのわたくしたちが日本語で暮らす限りその心性の根を置いている世界である。その心性は、けっして現在の高度に到達された自然科学自体や外国文化を否定するものではないだろう。ただ自分も含めて、母語による思索から離れ、他国の言語精神にナリスマシす物まね思考の危険性、特にこの国で概念思考をすることの構造的欠陥を問題とする。この傾向を避けるためにも、先史・有史に通低する母語という言語精神のはたらきを顕在化し、その独自法を手がかりとして、さらなる母語による思索を深めていくことが大事だ。そこにこの論の本来の目的がある。それが可能となれば、他の言語精神文化との差異を今以上に明確に把握できよう。そこで、もっと掘り下げたゆたかな自己自身の視点から、母語精神の長所と短所を構造的に自得した上で、内外の厳しい現実へも具体的に対処し得る眼差しが育っていくはずだ。時局の押し迫ったころ、国策研究会の求に応じた西田の「世界新秩序の原理」論からは、翻訳造語概念というものは、母語に浮かべたときに、概念以上のあらぬ意味づけがされてしまうという概念用法上の構造的欠陥があることを自覚できていなかったことがわかる。同時にそこから、母語言語精神の思索から離れいく他なかった明治以来の哲学のかかえていた限界点も見えてくる。言挙げせぬ国において、概念思考をしていく場合には、そこで用いる抽象概念を欧米言語精神による概念の翻訳と等値だと錯覚するところに、つねに落とし穴が潜んでいるのである。
日本人は、抽象的普遍に関する思惟能力が発達せずに、諸事情を普遍的規範のもとにまとめることが拙劣であったとか、日本語は、無意識のうちにおのずから日本人の論理的・科学的な思惟能力の発達を妨げているということはよく指摘されるところである。それらの批判はまったく正しいと思う。もしも抽象的普遍で構成される世界だけが唯一の存在であり続けるとするならばという条件つきだが・・・。日本語の思索のありかたがインド・欧米・中国とそのベクトルの方向性が違っていることを考えたとき、「純粋の和語をもって思想を表現する哲学はついに発達しなかった。その最大の原因は日本語においては、抽象名詞の構成法が確立していなかったからである-中村元」。という批判は、かえって母語の独自性への賛美の一種として聞こえてくる。いずれにしても現実問題として、いかに科学時代であろうと、わたくしたちは母語によらないかぎり深いチカラは湧いてこない。そんな母語精神を核にして、モノ派や舞踏という現代美術が到達し得た地平や、一万年の縄文の崇高なありようは、和歌・俳諧などを手がかりにしてこれから探求されるべき課題である。
古代の論理を尋ねて、母語にはたらくの法の解析と開示ができれば、いまもはや基体的主語を喪失してしまった現在の欧米文化圏が抱える諸問題解決の糸口も、そこにまた見つけることができそうである。まだ着手されはじめたばかりの日本語の不可思議な仕組みの解明。そして、その言語精神とパラレルな関係にある言挙げせぬ国におけるフィジカすなわち、わたしたちの身体や、波状口縁尖底器に代表される「物」の解明。それらの解析作業は、意外にも現代の自然科学や言語学の先端テーマと重なってくる。そう考えるひとが昨今多くなっているようである。
ここまで、非常にラフではあったが、波状口縁尖底器を例にとり、主に現代美術の一制作者側の視点から無文字時代と文字時代との間に一本の橋を架けわたすべく、両者に通低しているとおもわれる母語にはたらく言語精神の論理というものを、そしてその思索の核となっている基本の論理を三つの法に絞りこんできた。学問も、芸術論も逸脱してしまった観のあるこの論述は、実際の本制作にとりかかる前の仮設工事ではあるが、まだまだまこちらのチカラ不足による不備や論理飛躍も多く、釈然とされない方が大多数にのぼるかとおもわれる。特に各専門分野の方々には、浅慮にもとづいた独断のかずかずが不愉快なおもいをさせてしまったはずで、そこはこの場をもってお詫びしたい
長谷川 有
YU HASEGAWA
2010.06.14
修正更新 2010.08.05
修正更新 2010.09.17
参照論文/賀茂真淵
冠辞考 「多麻(タマ)は魂(タマ)なり。岐波流(キハル)は極(キハマル)にて人の生まれしよりながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけていう語なり」
/ 本居宣長研究ノートとブログ 海彦氏・白兎氏 / 「古層日本語の融合構造」木村紀子氏 / 易経・繋辞上伝
追記
■ 縄文を附して、たおやかに波打つ口縁をもつこの優雅な尖底形態は、以前から日本独自のものだといわれていた。
(自身も、昨年だが、別件で現・日本考古学協会会長の文学博士 菊地 徹夫氏にお会いした際に、そこでこの件を再確認できた。朝鮮半島や中国大陸でも最近の発掘研究は盛んだから、それをふまえると、やはり独自説は確実なものだろう)右拙論では、万葉集に痕跡を残す無文字時代の母語精神による独自論理が「物」と「言」の両面にわたってパラレルにはたらき、現代にまで至っているということをテーマにしており、そこで古語独自のメタフィジカとフィジカのロジックを明らかにしようとしてきた。そこで得た推論からは当然の結果ではあるが、最新の考古学方面でもこの「コトタマ」に対応する波状口縁尖底器の独自形態が確認されるということは人麻呂の言挙げせぬ国のアジアのなかでの言語精神の「言」にはたらく独自論理性の自覚が、もし哥座(utakura)の推論が正しいとするならば、はるか先史時代の「器」にまで適用できるということを物証面から保証してくれたようなものであり、心強い。
■ ところで、やはり日本独自の形態であるといわれているものに、波状の起伏をもつ「照り起り(てりむくり)」という屋根の独自形態がある。神輿の屋根や日光東照宮の四方唐文の屋根など伝統的神社仏閣の屋根や、またもっと身近なところでも霊柩車や銭湯の屋根にまで見つけることができる。
この「照り起り(てりむくり)」は、ジブンのまだ整理してない推察ではあるが、いままで右にみてきた、波状口縁尖底器にはたらく母語精神の「言=事」に備わる永遠性の球体論理が、この屋根の形態にまで発動している例だと思われる。それが、ここであきらかにしつつある「コトタマ」のタマカギルという究極のタマの「イノチ」をいれる容器として、球体を三分割し、その二つを逆さにして両端に配したかたちの屋根になったのではなかろうか。無文字時代の母語精神のはたらきが波状の口縁をもつ器となって以来、それが今日の波打つ屋根となるには、唐歌にたいする和歌の発達に合わせ、技術と自覚の両面で、建築の革新技術の習得もおえ、唐風屋根に対しての和風様式として、母語精神のはたらきの自覚を対他的に可能とした国風文化の波の到来を待たなければならなかったということだろう。そしていまも、ひとびとの「タマシイ」の大事な精神のよりどころである伝統的神社仏閣の屋根や、人の死に臨んで、「ミタマ」を葬送する霊柩車の屋根を飾っている。
■ さらに、独自の形態であるといわれている有名なものに、「勾玉」がある。球体の変形したその独特のかたちをもって、風土記には、月と太陽が重なり合った形との記述があり、また、月にならったものだとか、胎児の形であるとか、とかくそのユニークな不思議な形態をなにかの形にたとえてみようとすることが多い。要するにそれらの一般説は、勾玉はなにかの形象を真似たものであり、そこに神聖な意味を付与したものであるとする。しかし、それは、言挙げせぬというこの国の母語精神に理解がおよばないところから生じた民間信仰、あるいは、俗説にすぎない。いづれにしても言挙げせぬという母語にそなわる基本精神は、概念化、表象化、象徴化を拒んだところで成立し、世界をありのまま、動的な「事」として受容しようとしていく。そこではイメージに、世界をおとしこみ、それを真似たかたちをつくる行為というものは作為としてもっとも賎しめられるところだ。古事記表記では、「曲玉」となっている。もういちど真淵の冠辞考の「多麻(タマ)は魂(タマ)なり。岐波流(キハル)は極(キハマル)にて人の生まれしよりながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけていう語なり」を参考にすると、タマという完全無欠な涯(カギリ)にある球体へ向かって遥(ハルカ)にかけていくすがた、その涯たては洋とかすみ、イマは常に未然である。しかしそれゆえにかえって、玉の永遠性が保証されるという母語精神のパラドックスが、それを球体にしないで、球体を未然としたままのあの「曲がたま」のすがたになさしめたのではなかろうか。印度哲学でいう「無限の涯を限りとする無限大の法身」というもはや行き着いて身動きの取れない観念ではなく、「たま」の余白をのこし、絶対観念の球体とはせず、「言挙げせぬ」この国の独自の動的な永遠性のカタチになったというべきか。
いつか機会を得て、このあたりのことも精査・実証してみたい。
「哥座(うたくら)」は、いったん文化装置の全てに強制終了をかけ、次に、無文字文化の視点を再起動!。その地平から、日本美の謎の構造解明に挑む。
ここで開かれた美の原風景の地平からの展望は、等伯の「松林図屏風」の秘密を。また、日本芸術史上至高の異形の傑作、光琳の「燕子花図屏風」そして彼と同時代に生きた芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句に隠された秘密を。その字余り「で」というたった一字の切れ字がわたしたちの未来へ残したところの重大なメッセージを解明してくれるはづだ。
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松林図屏風考
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ところで、等伯の「松林図屏風」には、二つの視点と、それに基づく二つのこころの働きとが対立しあいながら同時に存在している。第一は、描写表現を旨とする山水画家の視点とそのこころの働きであり、第二は、これと正反対にあらゆる象徴化をも、表現描写をも受けつけずに、却って世界を受容していかんとする視点とその働きである。それは後で言うところの古言(フルコト)の既範がはたらいている視点である。この二つの視点と二つのこころの働きとが合いまり、はじめて「松林図屏風」は山水を越えた山水として日本絵画史上至高の作品となり得ているのである。そうして現在のわたしたちは無意識裡にその対立を感じとり、両視点が創りだす水面下の見えない緊迫のドラマに、いまもって、いや却って日本の原風景が求められているいまだからこそ、かぎりなく心ひきつけられているのである。しかし当時の最高水準の技量をもった山水画家等伯が、ひとりの水墨画家として表現描写の筆をあそこで止め得るだろうか?そして逆に、表現を無化する古言(フルコト)に身をゆだねていくことができるだろうか?この全くあい矛盾する二つのこころをひとりの心身でうけとめ、同時に働かせることは、絵描きの本能として不可能に近いことではなかろうか。
もともと、等伯は以下でいうところの描写を本分とする「縁側言語」にもとづいた視点をもった作家である。彼には、雪舟いらいの山水画の伝統的視座から逸脱することは、原理的に不可能であったし、その視座から逸脱の意図も自覚も必要もなかった。表現における等伯のあくなき探究精神は独自のものとしても、表現そのもののあり方までを疑い、そこから逸脱しようとは考えていなかったはずだ。それは、みづから「雪舟五代」を自認していたことからも、また「松林図屏風」前後の作品や記録をたどれば、あきらかであろう。
表現を越えた表現として「松林図屏風」があの十分に無化された具足性に到達するには、何らかの理由で山水描写として未完の後に、(ともすれば、主題登場を待つ背景とも見えかねない一種の放置されたあやうさが、却って、場を開き、そこへ、わたくしたちや、あらゆる事象を呼び込み、あい照らしだしてくれるはたらきとして作用している)ここでよしとする大胆なもうひとつの自覚的視座による空(ウツ)化を待つ必要があった。やはり、そこに偶発的な無名の存在の関与、もうひとつの視点-「フルコトとしての第一言語」による視点をもった者の関与を設定するのが妥当である。(ここでは、後世に襖画を屏風画に仕立て直したという周辺技術の問題は除外している)。
ここからは想像でしかないが、そこへ介在した空(ウツ)の視点は、描写を旨とする画家のものではなかっただろう。たぶん素朴な視点、場をゆづることでトポスとすることに長けた名もない職人的な視点に、悪戯好きの神のまなざしが宿った結果のものであろうと思われる。
従来の美術批評で「松林図屏風」のあの奇跡的な作品の文脈をいくら丹念に追いもとめようとも、フルコトの開く美の原風景、個の表現描写をタブーとした無文字文化の視点、さらに人麻呂のいう「言挙げせぬ国」の気高い心持ち、つまり捨象抽象化による描写をあへて、しないことで、かえって物と事に豊かに関わろうとする先人たちの気高い誇り、それらに理解が及ばない限り、そこから、等伯一人の作という前提を崩していかなければ、日本美の原風景を垣間見せてくれているあの作品の本質は、非連続の裂け目として、今後もあらゆる分析を拒みつづけていくに違いない。
しかし、「松林図屏風」が、等伯自筆の未完の作品を他の誰かが、再構成したものだとしてもあるいは、「等伯」という作家自体が現在のわたくしたちの虚構だとしても、今後とも、この作品の価値は少しも損なわれないだろう。
ここからが本論の本旨となる。
まず、具体的に、平成十年の「長谷川等伯展」における主催者と、観客の感想、そしてこれまでの識者の感想を拾い出してみよう。
「「しづけさ」あるいは「きよらかさ」が、不思議な神秘性となって、そこにおもわず引き込まれてしまう」
「能登の松をモチーフにしたであろうこの光景に、等伯のよき理解者であった利休が自害したことや、息子をうしなってしまった当時の等伯の悲哀をみとめる」
「一瞬の体験を永遠にとどめたような、静まり返った光景は、彼の晩年の絶対的な無の境地だ。そこに、利休と同一の「わび・幽玄」の精神性を見る」
「日本的で豊かな情感が流れているこの松林図屏風は、大和絵伝統のモチーフであった松林と、中国の牧谿の技法とを等伯が結びつけた結果、中国水墨の模倣の域ではなく完全に自己の画風に取り込むことに成功している。」
「屏風の前に立つと、松林をおおう霧が実際に流れているように見え、そのぼかしのきいた遠近感と大胆な余白にから、にじみ出す光を感じてしまう。」
しかし、ほんとうに楓図屏風と、松林図屏風は同じ作者の手になるものなのか。誰しも疑問に思うほど、い並ぶ作品群のなかで「松林図屏風」だけは作品の一連の流れのなかに、異様に逸脱してしまっている。日本の全芸術史のなかでも逸脱している作品であるが・・・。そもそも本画なのか下図なのかわかっていない。屏風絵か襖絵かも不明だ。そしてどちらが右隻で左隻なのか。和紙の継ぎ目と構成のなかの松の不自然な切れ方。遠方の雪山の意味、主題をなくした背景をそのまま放置したようにみえる全体が未完成の印象。それらはどうなのか。本当に等伯の真筆なのだろうか。そこで主催者は、この統一性を欠いた展示の穴埋めに、今回最近みつかった「月下松林図屏風」と「檜原図屏風」を用意した。「月下松林図屏風」は、「松林図屏風」とそっくりである。どうも等伯門下のだれかが「松林図屏風」に真似て作成したらしい。一方、「檜原図屏風」のほうは、一応、等伯作とされている。確かに画面の空白のとりかた、夕闇せまる檜のぼかしと、その重なる樹のありかたは、その後の「松林図屏風」の松のあしらい方、空間のとりかたに繋がっていくように見える。そしてなにより品格がある。しかし、檜原図屏風のほうは左記に記したが、歌枕にもなっている三輪の檜原を詠んだ和歌を画中にいれ(当時の能筆家・近衛信尹(このえ・のぶただ)の揮毫という)、作品としての完結性を保っている。
はつせ山
ゆふこえくれて やどとへば
三輪の檜原に 秋風ぞふく
禅性法師
こ
こで、注目すべきは、 この「檜原図屏風」においては、その画中の歌の三輪の檜原ということばをはぶき、代わって、その檜の原を水墨で表したことだ。ずいぶんおしゃれなコラボレーション構成になっている。ついでに三輪の檜原を詠んだ人麻呂の歌をあげておく。
古尓
有險人母 如吾等架
いにしへに ありけむひとも あがごとか
弥和乃桧原尓 挿頭折兼
みわのひばらに かざしをりけむ
徃川之
過去人之 手不折者
ゆくかはの すぎにしひとの たをらねば
裏觸立 三和之桧原者
うらぶれたてり みわのひばらは
足曳之
山鴨高 巻向之
あしひきの やまかもたかき まきむくの
木志乃子松二 三雪落来
きしのこまつに みゆきふりくる
巻向之
桧原毛未 雲居者
まきむくの ひばらもいまだ くもゐねば
子松之末由 沫雪流
こまつがうれゆ あわゆきながる
・・・・・・カキカケ 以下は未整理
○松林図の描法について 主たる松を描くにあたっては藁筆が用いもちいられているとの指摘が識者からある。また、その手法は、主に没骨描(輪郭線を用いない)と撥墨(はつぼく)とそして渇筆(筆を擦り付ける手法)である。
さらに墨の「にじみ」や「ぼかし」の技法と余白で構成されている。
襖という可動する二次元上で極力表現描写を忌避し、松を描くにあたっての道具も通常の描写につかう筆ではなく、藁筆を用いた。線という抽象描写をさけたかったのだ。そして、あの大きさは作者が身体という具体性でかかわっていくにふさわしいスケールである。そこで、体という物で、全身で格闘しつつ、墨と筆という「物」で、襖という物へたち向かった。霧のなかの日本的な無限性と、そこにおける存在者の永遠性、豊かさをテーマとしながら。そんな作業仮説を設定してみる。
▼ 霧のなかの縄文のようなラフで無表情な墨入れで極力表現描写を排している。◎ここに、山鳥が描写されたらどうだろう。台無しだ。
▼ ぼかし・にじみによる霧で永遠性 無限性をあらわしている。
▼ 松の五・六本の群れの繰り返によるゆたかさ。襖のその奥の空間と動的な開け閉めの重なりにも即応したものか。
■ その魅力を、仮定された等伯という個性にではなく、主催者と観客の感動の仕方から項目出しをする。そうすると、つまり、この襖絵自体は完全な描写をせぬ(そこで未完にみえる)からこそ、ブラックボックスとなり、人々の視点を誘ってくることが明確になってくる。さらに、この松林図へ現代がどんな期待をこめてみているのか、そこを分析する。
クライアントの要求を土俵にして、描写をせぬ、言挙げをせぬという法を再現するための工夫。それが基体となる松の導入である。そのための一種の方便となった松林である。
それが、松の意味を漂白するかのように、あへて描写には適さない藁筆で和紙を擦り、撥ねした、まるで縄文の縄目のような墨の跡目である。。
だから、これは、・・・。
■大和絵の伝統をひいたとされてこの松は、二次元という縛りのもとで、まず、この二次元を否定し、抽象化を破壊する(無化する)役割を果たしている。したがって、この松は描写された松ではなく、描写を拒否する松である。伝統的浜松図のあの松の霊力を称えるパターン絵とはどうも根本精神が違っていそうだ。意味性のない松の四五本の群れが霧のなかに離れ離れに立っている。お互いの群れは関係あるようでいて、ないようでもあり、微妙な関係だ。その群れ自体はすべて空へひらいた三角垂の形態であり、かつ濃淡による遠近が意識されて手前は濃墨のはげしい跡目が、有無をいわさず、一気にものにされたものであることを物語っている。それに、三角垂のそれぞれの松林が尖底器の姿にさえ見える。手前の松はどれも荒く、大和絵の浜松図にあるような松の優雅や神聖さのイメージを拒否しているようだ。わたくしたちを画面に引き入れて、しかもあらゆるものの視点を拒否しない。ここでは、もはや作者はおおきな問題ではない。無文字時代精神をロジックフィールドとしながら、三次元での描写をタブーとした縄文のあのあり方が二次元変換し得た類稀な例ではなかろうか。そして、それ以上に意味があるのは、こうした無限を未然とすることで、かえって永遠を感じられるというパラドックスにわたしたちが、イマもかぎりなくこころ惹きつけられているという事実である。
____以上未整理。
(これにつづく本論は2010 .12月 に脱稿予定)