霞ヶ浦研究 その二

       「コノハナサクヤヒメ」(制作中・仮原稿)

             鹿鳴草物語 よりの引用


          古代詳細マップを見る→NEXT   古代霞ヶ浦研究家 K.高島

 父のオオヤマツミについて カグチの分身ということで、製鉄とつながる面もみえる。
反面、「大山積の神、一名は和多志の大神なり。」「此神、百済の国より渡りきまして
津の国の御嶋に坐しき。」     (『伊予国風土記』逸文)ともいわれている。

木花夜毘売は、溶鉱炉の産鉄を人格神としたもの。

木花夜毘売に子の天津日高日子穂手見命。

『古事記』に天津彦火火出命とある穂穂手見は、鍛冶の技術ももっていた。

4 筑波山麓の製鉄

郡の東ニ、三里に高松の浜あり。――――慶長元(*704)年、国の司(頭注=常陸国守)
綏女朝臣、鍛(頭注=金内の意。鍛冶に従事する人。)、佐備(頭注=サビは小刀また鋤
の意。)の大麻呂等を率て、若松の浜の鉄を採りて、釼を造りき。此より南、軽野の里の若松
の浜に至る間、三十余里ばかり、は皆松山なり。伏苓・伏神を年毎に掘る。其の若松の浦は、
即ち、常陸と下総と二つの国の堺なる安是の湖のあるところなり。沙鉄はは釼を造るに、
大だ利し。然れども、香島の神山たれば、輙く入て、松を伐り鉄を穿ることを得ず。

郡の南二十里あり。その東の松山の中に、一つの大きな沼あり。寒田と謂う。

『風土記』鹿島郡

  鹿島の鉄

昔の砂鉄の製錬は「沙鉄」を豊富に含んだ大量の砂と、その近くに水と燃料としての「松」が
必要であった。神栖市の神ン池は、古くは、軽の(野)池ともいわれた。

『書紀』に、「其の帯剣かせる大葉刈、亦の名は神戸剣」とある。同書の頭注によれば
「ハは刃、カリは刀であろう。朝鮮語で刀をkalという。大きな刃の刀」ということだ。
美野里町に大字羽刈がある。
kルノがやがてカンノに変り、カンノ池に「神の池」という字をあてた。それをコウノ池と呼んだ。
軽の池から神ノ池へは、こういう変化をたどったと思われる。

寒田(池)」

サムの前はサブであったと思われる。そのサブは「鍛 佐備の大麻呂」のサビと同根で、
鉄のことだ。軽野池、寒田(池)、いずれにしても、刀の神の鹿島にふさわしい池の名だ。

5新治村小野

「現在滋賀県滋賀郡志賀町に含まれている」「小野郷にある名神大社の小野神社」「の近くに
タタラ谷や金糞といった小字名がある。」「また、湖北のマキノ町でも、古代の鉄穴あとが発見
} され、おびただしい鉄滓が散乱しているが、そこにも、小野神社(現在は海津の天神神社境内)
がある。」「信州の上伊那郡の北小野にある小野神社に鉄滓が」残されている。」「日光ニ荒山の
頂きから百三十一個の鉄滓が出土した。この二荒山の女体山と呼び、その社人は猿丸大夫の
子孫の小野源大夫という。」(『足跡』

これらのことから、小野という地名、そこに住んでいた小野氏、その祖先を祭った小野神社などと、
製鉄や鉄滓とのつながりが浮かびあがってくる。

  新治村上坂田

飛鳥から奈良時代の過渡的時期のものと推定されている、武者塚古墳がある。ここは、「みずら」や
、冠のベルトと思われる銀製帯状金具、鉄柄付着青銅製杓、銀製圭頭太刀、青銅三塁環柄頭太刀等、
豪華で貴重な品々が出土した。42本の鉄鏃と3本の鉄製直刀も出土している。同地の東南約300
メートルの下坂田には、5世紀後葉と推定されている武具八幡古墳がある。ここからは、鉄製の衝角付冑、
眉庇付冑、短甲、挂甲等の鎧の部品、鉄鏃63本などの武具が出土した。

  浮島

4世紀後半といわれ、県内最古の古墳に属するとされている前方後方の原1号墳がある。ここから出土
した鉄槍、鉄剣、?、鉄斧、鎌、針類、あるいは、和田古墳から発見された鉄鏃が、この地の砂鉄によった
ものかどうかは定かではない。

  出島村

出島村に大字上軽部、下軽部がある。宍倉、安食地区に、6世紀と推定される風返古墳郡があり、
金銅製耳飾、馬具のほか、直刀、鉄鏃等が出土している。ここは、『史市』上に、「井関台地の
最東端部、霞ヶ浦に突出した台地鞍部にあり鉄滓が散乱している。」と記されている金子沢製鉄
遺跡と隣接している。その1キロ西の同じ井関地内には、月の台製鉄後がある。ここは、「古酒より
のびた半島状台地付け根部分で、旧井関小学校敷地内にあり鉄滓が多数出土した」(同右)ところ
である。また、南東2.5キロの安食地内には、鉄刀・刀子等が出土したといわれていて、装飾文様
のある、推定7世紀前半の大師カロード古墳があり、それに隣接して小津製鉄跡がある。これらの
三製鉄跡は、いずれも、霞ヶ浦と菱木川とに挟まれた舌状台地地上にあり、それぞれに隣接する
古墳から出土したと刀剣類との関連が考えられそうである。この金子沢製鉄跡と小津製鉄跡の間、
つまり、風返古墳郡と大師カロード古墳の」間の菱木川沿いに、上軽部と下軽部がある。

  千代田村大字中志筑小字鹿鳴草(千代田村)

千代田村には製鉄跡が多く、新治村東条寺に源を発する天の川の下流、及び、
加波山から流れ下る恋瀬川の下流両岸は、さながら製鉄団地の観を呈している。

『千代田村の文化財』(村教委)は、それについて次のように解説している。

「栗田の石倉、下志筑の兼子、鹿鳴草、上佐谷のカジ下りなどにある製鉄跡は、
遠く奈良時代に朝鮮より帰化した工人の手によって、信築川(現恋瀬川)流域に新しい
産業が発達したことを物語る貴重な遺構である。志筑地区は、常陸国府(現石岡市)と
隣接した地であり、付近に古墳や住居跡が数多く点在し、当時かなり栄えたことがうか
がわれる。該地は何れも製鉄上の条件を具備し、特に砂鉄量の豊富なところである。

  クダラ

「上佐谷の関戸とニタ又、中志筑と下志筑堺の高仏などから古代瓦が多数出土している。
これらは何れも瓦窯地として条件を備えている上に、当時工人の屋敷でもあったのか
『クダラ』という地名を中心にして約千米の範囲内にある。尚、志筑川(恋瀬川)を堺に
常陸国府のあった府中(石岡)と隣接していることと、製鉄跡や金掘穴が近くにあることを
付記しておく。」

また、『史談会誌第8号』(千代田村史談会)には、上佐谷の「『高の坊』の続きの畑に
カジ下りという名の畑があり、その又南の田をへだてて小金内という名称のはたけもあり、
共に『たたら製鉄』をした遺跡とされ、『カジ下がり』には『金くそ』が見られ、耕地としては
不向きの場所です。」とある。

そのほか、製鉄、鍛冶、鋳造に関係のありそうな小字名を拾うと、梶田(大字雪入)、
梶下がり・梶場谷ツ(上佐谷)、梶場(下佐谷)、赤池・芋頭(中佐久)、梶久保・菖蒲砂・
菖蒲洲・タタライ・カナクボ・カチ久保(上稲吉)、芋内(下稲吉)、金丸・鍛冶谷、梶内
(西野寺)梶田・小金塚(上志筑)、金田・樋口(栗田)、梶発句・梶山・湯ヶ作(高倉)等がある。

この地域の製鉄守護神だったと思われるものに、西野寺の胎安神社と東野寺の子安神社
がある。前者は、経津主命と木花咲耶姫を祭神とし、天平宝字6(762)年の創建といわれて
いる。後者は、武甕槌命と木花咲耶姫を祭神として大同ニ(802)年の創建とされている。
両者とも、現在は安産育児の神として信仰をあつめているが、木花咲耶姫命は製鉄炉の
神であり、}ホドが安産につながっていったものと思われる。ともに、刀の神と製鉄の神を
合祀していることから、当初の目的を推察できそうである。

  かなくそ山

千代田村の製鉄跡で、最近脚光をあびたのは、栗田のかなくそ山遺跡だ。63年2月27日の
『いはらき』は、「千代田の『栗田かなくそ山遺跡』古代の製鉄工場確認 斜面利用して鉄滓を
処理 箱型炉や炭窯跡発掘」と、大見出しのもと、次の記事を掲げている。

宮平やかなくそ山に方形製鉄炉を築いた、高度の産鉄技術を持つ一団は、これらのうちの
「東国に居」かれた「百済の男女二千人」、あるいは、「常陸国に居らし」められた
「高麗五十六人」に含まれていたか、それと同類の移住者あるいはその子孫ではなかったかと
想像する。
 

              次ページ→NEXT

.......................................................................................................

  ご質問 お問い合わせ先 : info@natual.com      提供  株式会社 プラスジャパン
  「香取の海」復元 実行委員会     

......................................................................................................

 

 

 

 

 

 

...........................................................................................................................

  

□ 第一回「芭蕉記念箱根俳句賞」・・・・・・・・・・・・・・・・・・前半

○ 第一回「西行記念箱根短歌賞」・・・・・・・・・・・・・・・・・・後半

WEB・TOP