Aesthetics
美学あるいは反美学
「非象-見るから見ゆへ」 有
天上山火口原にて(90m×0.9m)
白ゆふ(木綿布)と自然石
- 写真記録は上野都美術館
美の仕組みについて
もくじ
特集 - 言挙げせぬ国のフィジカ
序 論 - 解明にあたって
本論一 - 描写と沈黙
本論二 - 一なるもの遥かなるもの
本論三 - 関わりと産霊(むすひ)
結 び - ことばの姿
漢 意 - ナリスマシとは
賀茂馬渕・本居宣長 - 「たまくしげ他」
西田哲学 -絶対矛盾的自己同一
茶の本 - 岡倉天心
古語復活論+日本美+他 - 折口信夫
古代国語の音韻に就いて 橋本進吉
万葉秀歌 - 斎藤茂吉
DANCE パッケージ - 哥座星座
哥 座( うたくら)について
言挙げせぬ国のフィジカ
たまきはる命としての
波状口縁尖底器
撮影( 6×4.5) 有
縄文の縄目文様は、表象を忌避してきた証であるが、無文字時代の智慧は、イメージや表象を忌避することで、却ってありのままの世界が受容できることを慧っていた。いまにさえ連続しているわたくしたちのことばの法の核心が、ここに存している。
右イメージはいまから約八千年前の縄文早期の波状口縁尖底土器である。このはるか以前の草創期の器より、そして、その後の中期火炎式(中期にみられる蛇や蛙の形象は器をタブローとして描写したものではない。あくまで縄の眼にそった”お飾り”の一種がパターン化して成ったものである。その証拠にこれらの形象は水煙式や火炎式へと吸収されていった。)や晩期の土器にいたるまで、計一万年以上にもわたって、これらの器は抽象化をタブーとする規範のもとに、描写というものを忌避しつづけてきた。草創期から器表面を抽象還元して、イメージを描くための支持体とはしてこなかったのだ。そこには、”「物」を対象化した物質とはせぬ”という先史時代言語精神の靭き意思を見て取れる。この規範は、記紀万葉の文字時代になっても「言挙げせぬ」ということばにみられる不文律としてはたらき、さらに現代にいたっても暮らしのなかの本音や、社会の深層心理にまで強くはたらき続けている。
形而上者謂之道
形而下者謂之器
- 易経・繋辞上伝
一方、東シナ海をはさんだ国、中国の器は、波状口縁尖底器からみると、そこから四、五千年ほど時代が下るが、「物」を物質として対象化し、その成分を抽出するという抽象化作業において、はじめて抽出されるところの青銅を獲得。他方、思想においてもB.C.1700年頃の中国では、右にかかげた易経・繋辞上伝第十二章にみられるごとく、「形而上者謂之道 形而下者謂之器(形而上者とは、これを道と謂い、形而下者とは、これを器と謂う)」とする陰陽原理にもとづいた世界の高度な抽象理論の体系化が進行した。この抽象的線刻に適したメタルの獲得と、抽象思考を両輪として、表現は極度にソフィストケイトされてくる。
(繋辞上伝が易経に追加されたのは孔子の時代だが、その思想の基礎はすでに殷周時代にあったといわれている)そこで、「器」の存在根拠は、抽象概念であるところの「道(タオ)」とされ、その理論の深化とパラレルなかたちで、殷周の青銅器の文様の抽象化はすさまじく発展し、天の威光を受容する聖なる祭器として、鬼気迫る恐るべきものにまで深化していく。雷紋や過紋の幾何学文様、獣面文または饕餮(トウテツ)文のような抽象文様は、陰陽宇宙の絶対性の高みにまで表現されて、そこに立ち会う者を威嚇し、圧倒し尽くす。
*易経・繋辞上伝における器の概念は、広義では、天からの陰陽の働きかけを受けるすべてのかたち在るものを指す。すなわち、形而下としての物である。あらゆる存在の根源である形のない形而上としての道(タオ)に対して、具体的な象をもつあらゆる存在物を意味した。狭義の祭器としての器のみならず、人間も含め、地上に存在する現象面において把捉し得られるすべての形象が器であった。
*漢字の原義における器という文字は、犬牲を用いて清めた祭器を形象したものだ。四つの口のあいだにはさまれた大の字は、本来の意は犬牲にあるので、犬が正しい。- 「字統」白川静より抜粋。かように器は天からの陰陽の働きかけを受け、まつりごとを行う、このうえなく神聖なものであった。それゆえ器を制する者は、その象を尚(たっと)ぶ聖人であるとされた。
序論
器の解明にあたり
易経や漢字における器に聖性をみる基本的な位置づけは、暮らしのなかに位置づけられた性格がつよい日本の器にあっても、器というものの古代における重要性を考慮してみると、これらはたんなる道具存在にとどまらす、聖なる性格を帯びていただろうことは、想像に難くない。早期の波状口縁や中期の火炎式土器などの形態をみれば、それらは道具存在としての機能を逸脱しており、なんらかの精神的な意味を担っていたであろうことは明らかだ。それゆえ、この尖底器にはたらく思想を読み取る試みは、即ち、当該精神文化の凝縮した桂離宮やパルテノン神殿の設計思想にあたり、多角的視点から当時の言語精神の深層構造を解明しようとする作業とまったく同じことであり、そこからこの列島の言語精神のはたらきを十全に汲み取ることが可能となろう。
ただし、この解明は内にあっては古史古伝など頼るべき文字資料がない時代であり、また第二次資料として援用可能な漢書による記述もおよばないB.C一世紀以前の弥生からそれ以前の新石器時代が対象となる。そこに古典学や言語学、民俗学、歴史学等々の従来社会科学系人文学の限界が生じてくる。唯一、科学的実証性によって研究可能な自然科学系と人文科学系の中間に位置する考古学に期待がかかるところだ。しかし、自然科学的方法で年代を決め、それを基に層位学と型式学を組合せ相対年代を求め、出土した遺物をデータとして再構成し、そこにあった人々の生活・文化・社会のありさまをある程度シュミレーションして見ていくことを可能とするこの手法は、そこで見えた姿がパラメーターの設定次第で結果は大きく変動してしまうことを考えあわせたとき、その限界を超えて当時のひとびとの活きた心性の核にまで踏み込み、先史思想が現代とどう関連するのかなど核心となるべき問題に応えていくには、どれほどデータがそろった時代にあっても常に蓋然的な解答に留まるほかなく、不足を想像で補うしかないであろうかと思われる。先史とはいえ、すぐそこにあるひとびとの暮らしや考え方なのであるが、前文字文化と文字文化以降の社会との間にはこのような学問解明上の不連続線が横たわっている。
平成も二十年のころ、霞ヶ浦の地政学的な要となっているポイントを訪れた時のことである。そのあたりは古墳がやたら多いのだが、そんな丘のひとつに立ったとき、縄文中期から晩期にかけての土器破片が無数に散らばったねぎ畑でひとり黙々と畑仕事をするおばあさんの姿にであった。きっと、このあいだまで、田舎のいたるところのくらしのなかにこのような土器破片がまぎれこんだ光景があったであろう。わたくしたちの心性や社会のありかたを考えるとき、こうした欠片をいまに遺す縄文を無視することはできない。そこはヒトのいなかったはるかな恐竜時代ではない。文字の使用の有無という壁があるにしても、一音節身体語や二音節動詞、畳語、てにをはなど現在とほとんどかわらぬ言語をつかうひとびとが暮していたはずのお隣の時代である。
この学問解明上の不連続線を越えて、母語による独自言語精神のはたらきが文字使用の前と後でどう変化したのか、また両者の言語精神に共通のものがあるとすれば、そこにはたらいた法とは何かが探求される必要がある。列島全域にこれだけなまなましい痕跡を無数にのこしている縄文文化である。この無文字時代の視点を解明し、先史とよばれる時代精神から現代の意味を求めなくては、文字資料だけで得られる古代精神の分析から古代や現代をながめても片手落ちの観は否めない。
そのへんは各研究機関でも意識されていて、比較人類学、比較民族学、言語学等の学際的な相互研究でそこを乗り越えようという動きはでている。しかし、実際上は、理念とは裏腹に、それぞれの学問の拠るべき立場が明確になってくると、その間のギャップはひろがるばかりとなる。用語ひとつ例にとっても、学際間で共通に定まったものがないのが現状であろう。この不連続線を、従来学問の方法や、欧米に真似てはじまった学際的な試みなどで乗り越えうるとの熱意は、欧米に由来するそれら学問の基盤そのものが問われないかぎり、現代神話のひとつくらいは創れても、結局無駄な努力に終わる可能性が高い。
解明の方法
そこで、ここでは無文字時代と文字時代との間にあるこの不連続線に対して、従来の欧米型学問の実証的方法論からはいったんはなれて、母語にそなわる法に従い、「物」へと聴き入り、「物」に添って「物」を開いていく母語独自の思索の方法で臨みたい。そこでは、物を対象として認識するのではなく、物へ出会うという認識に代へた確認の方法を採る。具体的にはそれは、現代美術の実作による体験的で、かつ活きた動的視点から観ていくことになる。そこから、そのギャップへ一本の活きた橋をそれ自体を広い意味での現代美術作品のひとつの作業体として架けわたす試みとなる。もとより描写表現をわざと回避したようにみえる縄文という無文字時代の精神は、表現描写にかかせない抽象化そのもののプロセスをタブーとしてきたのであれば、この尖底器は、捨象および抽象化によってその本質を見きわめて、そこから組み立てた推論を逐一秩序よく証拠立てていこうとする学問範疇から逸脱した種類のものである。したがって従来学問の対象には馴染まないところがあろう。その独自性は、それ自身にそって、それ自身に備わった独自論理で作業してはじめてその内部の秘密へと迫ることができる。
客観であるべき作業を学問にかえて、芸術で解明するなどといいだすと、さすがに困惑される向きが多くなろう。現代の常識からは当然である。しかし、この言挙げせぬ国の思想哲理は歴史的にみても、抽象概念を言挙げして概念を論理的に積み上げていく西欧型学問のようなシステマティックな思想表現のかたちをとってこなかった。道元や西田に代表される優れて構築的な哲学思想もあるが、それらはあくまで山水、大和絵、能楽、茶道、日本画、洋画のように、印度・中国・欧米式学問・芸術原理でなったものを輸入、受容し、日本的深化に成功したものであり、形式は学問のようにみえても、内容は印・中・欧のような厳密な学の体系をなしていないものであることは、識者からしばしば指摘されるところである。そして問題は、それらが果たして母語のちからを自覚的にひきだして、母語を核に、独自発展させてきたこの国固有の学問・芸術だったのだろうかというところにある。
これに対して、人麻呂・芭蕉に代表される和歌、俳諧においては、当初幾分の形式は唐歌を意識したものであっても、基本的には母語言語精神のちからを自覚的に動的な姿で捉え、それ自体の運動でいきた思想にまで昇華させている。その意味で、契沖か真淵か、「この国における和歌は、唐土の詩経に位置づけされるものである」といっているが、和歌、俳諧は、文芸という一ジャンルの詩作品にとどまるものではなく、その一首・一句そのものが母語による活きたままの動的な哲学思想と呼べるものなのである。事実、思想を活きた歌と成し得るとのおもいは「因明論の似現量の心を」と前書して、インド論理学を歌にかえ「むら雲の絶え間のかげは急げどもふくるはおそき秋の夜の月(-風雅集)」と詠む行為にも反映されており、また、「歌は正しく仏法そのものであった。それが明恵のすき心である。(中村元の指摘)」。等々、印中の言語精神にもとづいた論理・学問を、母語言語精神へと、そこにはたらく法が純化されているはずの歌という芸術形式へと置き換えようとする試みは、わたくしたち言語精神のひとつの独自ともいうべき自然な傾向であった。
以下の作業のなかで、徐々に顕かにしていくつもりだが、この列島の言語精神による思索のありかたというものは、印・中・欧の言語精神による思索とは、その方向性や内容・方法論がまったく違っている。したがってそこに働く時間や空間も異なってくる。真理という基本的な概念の意味するところさえ同じではない。
それは芸術自身についてもいえる。周知のように、この国の芸術の名でよばれる作品のほとんどは、印度・中国・欧米式芸術原理を輸入、受容し、日本化されてきたものだ。しかし、動的で身体をとおった母語精神の視座から自発的に達成された作品もある。そんな作品に対しては、印・中・欧の言語精神による思索は適用しづらい。基本的に母語言語精神のちからをかりて動的な姿のまま捉え、連歌・連句のように観る側もそれ自体の運動と一体化して参加、了解しなければ、深い理解にまでたどり着くことは難しくなる。たとえば現代美術の具体運動から*モノ派の菅木志雄や李禹煥にみられる一連の作品群がそうである。達成したレベルは、国際的にみても、同時代の欧米ミニマル・アートや、日本の現代思想家の論文形式の作品レベルをはるかに凌駕したものであり、従来美学や批評の対象圏外に位置している。ただし、その成果が母語という一言語精神を越えた世界でも注目をあつめ得た主因は、まず、作業側が、世界的ポストモダンの流れをうけて、それまでの印中欧米の抽象概念にまつわる惑わしや既存の伝統造型概念を祓ったところで作業できたという、しかも物というものを相手にして、「物をオブジェクトとしてとらえるか物としてとらえるか」という母語の本源的な地平からの問い直しとともにあたらしくはじめることができたという、多分にこの時代のジャンルの置かれた立ち位置の幸運性にあった。そんな既存の伝統造型概念を破った作品を批評側も求めていたのだ。
ところで、いかなる時代であろうと、学問も芸術もその基盤は、いまという現存在との身体も含めた格闘の場なくして成立し得ない。それは、欧米言語精神による主知化・合理化で近代学問の方法論を打ち立てたマックス・ヴェーバーでさえ「学問上、霊感をえるためにも現実の事柄(Eine Sache)に専心することが必要である」と学問に先立って、現実世界と不離不足の関係で成立する直感の必要性に言及していることからも窺えよう。とりわけその学問の方法論を表面上で受容してきただけのこの国において、近代学問の方法は真似できても、それを生み出した他国言語精神そのものは体験できず、頭の中でのトレースしかできない。直感の拠って立つ場なくば、そして、母語という言葉のチカラの手助けで独自視点と独自方法論をもたなくては、学問なんぞ計算ごとでしかないだろう。
「言挙げせぬ」という言語精神からみた場合、欧米哲学に当たるものとしての、この国独自の思想・哲学というものは、時代とともに表現メディアを変えてきている。縄文では縄文、その後は和歌、連歌・連句、俳諧。そして現在・・・の順に。 一方、明治以降の哲学・美学と呼ばれているものは、実態はいまでいう注釈書附きの輸入パッケージソフト商品にすぎない。バグの多さにも拘らず、いまだ、ほそぼそ流通しているのをみると、せまい業界内で、自らの思考停止を引用によって誤魔化すことで業界内生存を図らんとする意図のもと、権威付けや、アリバイ作りに利用されているようだ。母語言語精神への自覚が欠如したまま欧米哲学・美学の直訳概念を母語で運用表現するという矛盾を犯したままのこれら商材は、哲学・思想と商品名がついていても、この国独自の確固たる思想・哲学とは縁のないものである。
*「モノ派とは、1970年代前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(いか「モノ」と記す)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たちを指す。(菅 木志雄、李禹煥、関根伸夫、吉田克朗、本田真吾、成田克彦、小清水 漸、榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真、原口典之、等)・・・菅はモノの存在の決定因として状況、イベントなどを順次覚醒させてゆき、とりわけ、モノと空間の両義的な接点として「面」ないし「界」に注目し、面の表と裏、界のこちらとあちらといった位相転換をばねとして空間の分節、存在の多元的発現を可能にした方法体系は、まったく独創的なものであった。菅の作品にはつねに「何によってモノは在るか」、「何によって私たちはそれを見るのか」という設問(縁起性)が伏在している。しかし、同じ設問を、ジャスパー・ジョーンズが主知主義的で晦渋なタブローやオブジェに閉じ込めていたのと違って、菅はそれを、モノと空間に沿って、それらとの戯れとともに、肉体的・精神的な快活さで演じていった。存在への問いの答えは、モノにも作品にも概念にもあるわけがなく、モノや空間を分節するヒトとそのヒトの振舞いを規定してくるモノの構造との依存し合う戯れ(それは関係という静的概念では捉えられない)のなかにしかないことを、菅は作品自体によって示すのである。菅において、モノ派は真に肉体を得たと評していい。」- 1986年鎌倉画廊《モノ派》展カタログ/美術評論家 峯村敏明氏論文より引用。
作業上、留意すべき三点
第一点は、まず、近代美学の造型視点や従来の中国青銅器や陶磁器の鑑定眼は、いったん括弧にいれること。実際、たんなる造形物の国際比較などで外面的な特徴を検討し、理論と実証をいくら積み重ねようが、その比較検討する眼差し自体が、近代自然・社会科学のものである限り、従来美学や、概念、論理思考をはみだしたところから生み出された、この尖底器の美の謎は原理上、読み解け得ない。
第二点は、したがって、この器の「物」として、「事」として在るありかたを、タオ的な理法ではなく、また欧米の概念思考ではなく、わたくしたちの古層にはたらく「言(こと)」のちからを借りて「物」にそって追体験していかねばならない。無文字時代の言語精神にそったかたちで読み解く必要があるのだ。
なにやら難しく聞こえるが、やまと言葉は、おおむね弥生時代に定着したといわれ、そのほとんどは現在も使用されている。たとえば、その後の源氏物語において、その用語や文法には現在までおおきな変化はなく、敬語や助動詞に慣れれば概ね小・中学生でも読解可能である。(ところで、稲作開始後に定着した稲にまつわる用語は体言、用言ともにかなりの数にのぼるが、それは近代社会以降、生産手段の激変による現代語における製品、商品名の氾濫をみれば察せられる当然の事態であったはずで、ただ、そのことだけをもってして、わたくしたちのいまを、その基本心性を構成しているはずの言語精神全体を弥生にあったと判断してはならないだろう。)これら稲作関連用語をのぞいたとしても、て・に・を・はの助詞、地名、身体語、二音節動詞、畳語、擬声語という基本言語群の大部分は、弥生以前つまり、やまとことばのさらに古層に位置づけされるといわれている。そして、それら言語のほとんどは、そのままのかたちでいまにまで継承されて、幼児からお年寄り、そして*ナリスマシ族までが日常で無意識裡に使用している。「言(こと)」は、そのまま先史、それもそうとう古層の言語にまで遡れるはずの私たちにとって血肉身体化されたことばなのである。
思索というものがことばによって深められるものである限りにおいて、母語のちからの手助けなくしては、なにもできないのはあきらかである。だから、「万づの事に繪(かた)を書てしるしとする国-(真淵)」の言語精神=漢字という文字絵のうみだす意味世界から離れて、「繪(かた)をもちいざる」言語精神=母語の一語一語の感覚の融通性や類推的に広がる意味領域、その原音のひびき合ふ世界に深く聴き入りたい。それはまた言挙げせぬこの国の独自の思索方法である。心身を澄まし、一語一語に聴き入り、顕わとなれる「事=言」の、そのあり方、展開のあり様こそが、西欧でいう文法にあたる。母語に備わる先験的ともいうべき法である。本来単語さえないといわれる母語にあって、文語であろうと、口語であろうと、SVOや接尾語、助動詞とか助詞などの意味機能の視点から言葉の構成法を考えたり、あるいは南方系統にアルタイ語系が重なった言語であるなどと比較言語の発想から母語の組み立てを考えていくことは、そうかもしれないが、あくまで派生的な事柄である。そこから不可思議な先験性に根をもつことばのはたらきは明らかにされてこないだろう。しかし、日常誰しもがしているように母語に聴き入るだけで、「言(こと)」の古層からことばにはたらく法をあきらかにすることは可能である。またそこから現代の思考方では及びもつかなかった程の、おおきなチカラを惹きだせることになる。「ことばの一音一音は、舌頭に千度転がすべし」と芭蕉がいうように・・・。
第三点は、古層にはたらく「言(こと)」のちからを借りて「物」にそって追体験していく際に、悟性的判断にすべての信を置かないことである。状況証拠のみで、全体を判断しないことである。物にしても言の世界においても、経済社会的諸条件や自然環境からそれ自体の存在が演繹され尽くすものではない。現在考えうる諸条件などは、永遠にそのつど、全体のほんの一部でしかないはずだ。まして、心性の核を問題にしていくときはそうである。しかし、自身を省みても往々にして、そのトラップにはまり、理(ことわり)思考という母語による言語精神からみれば一種の思索停止状態に陥ってしまうことが多い。そうした一例としても、語源的説明の無限拡張に陥らないことである。折口いうように「語源というものは、幾らでももとがある」。語源解釈や細かい状況証拠立ても場合によっては必要となるのは間違いないが、それは他に譲りたい。ここでは悟性判断ではなく、身体を媒介に聴き取った体験智に軸足を置いた作業をしていく。対象化せず物へ聴き入れば、合い照らす瞬間(とき)が向こうからやって来る。それで分るものは分る。分らないものはそれ以上悟性で追いかけまわさずに、打っ遣っておけばいつか分ってくるものであろう。
本論
「明治以後、安直な学問が栄えたが、もつと本式に腰を据ゑて、根本的に、古代精神の起つて来るところを研究して、古代の論理を尋ねて来る必要がある。」 - 折口
波状口縁尖底器。
- この器にはたらく三つの法。
一、
描写と沈黙
この器にはたらく法の核心は、記紀万葉にまでも継承され、人麻呂が当時の中国と比較して、「言挙げせぬ国」と詠んだその言挙げせぬ禁忌法にある。
それは、概念化による捨象、抽象化を排して、言挙げにつながる抽象理論の構築を拒否し、あらゆる物をありのまま言挙げせず、動的な輝きのままに受容していこうとする論理である。物を対象化しないことで、物と一体化を果たし、そこからひらいてくる全球的視座というものに、深く聴き入り、「たまきはる」いのちの果てまでも、かぎりなく深く与していこうとする思索態度のあり方である。
このわたくしたちのおもひ・思索のあり方というものは、欧米型言語精神のように知覚を抽象概念に翻意し、そこで論理を構成して知を求めていこうとする思考法とは、まったく異なったものである。両者は、そのままでは相容れず、真っ向から対立するか、すれ違ってしまうものの捉え方だ。だが、この思考のはたらき方の根本的な違いをわたくしたちは、さほど自覚することはない。一般的な日常生活においては、そのことが直接なんらかの支障になることが少ないからだろう。しかし、以下で扱うように、この言語精神に発する思考の違いの自覚欠如というものはそれだけで済まない。他に比肩するものが見当たらないほどおおきな悲劇につながる問題を孕んでいるのだ。
現代美術や現代舞踏の現場にたつと、これらの違いが作品や身体上に如実に顕わになっている事例を具体的に目撃できるのであるが、ここでは、あまり触れないが、言語精神が直接かかわってくるシチュエーションに身をおいてなにか創りだそうとしたときには、かならず、欧米型言語精神と母語精神との思考法の違いに直面することになる。しかし、それが散文形式文学や研究論文という言語自体の作品となると、俳句や短歌という伝統詩形は別として、「身体」や、「もの」でみえていたこの如実な差異は、かえって分かり難くなってしまう。ことばの内包する意味・概念というものに霍乱されてしまうからだ。ことにITに代表される現代は、異なる言語システム間での、即物的利便性の観点からことばを蓋然的に対比させて、そこですませようとする傾向が強まってきている。いわば、翻訳型主導というべきことばの時代である。そこでは欧米型と母語言語精神との思考法の違いはもはや存在しないか、ゆくゆくは乗り越えられるべきものくらいにしか受け止められていない。
特殊なケースを除いて、欧米思考法とのこの決定的差異を自覚することなく、現在、生活スタイルにしても、科学技術にしても、これだけ欧米化したわたくしたちである。しかし、依然、ここで、縄文を代表する器としてとりあげたこの波状口縁尖底器にはたらく法は、母語精神の精華である和歌・俳諧そして、いま、モノ派や舞踏にいたる現代美術の核心や、ひとりひとりの生活の本音の部分にまで、一万年以上にもわたって一貫してはたらきつづけているのである。
現代の代表的万葉学者のひとり、中西進はいう「 古代では、人と自然とを相対化して捉える意識がなかった。人と自然をひっくるめて、ここにある山、あそこにある川、そして私。そういうものを総体として捉えていた。」と。しかし、いまの古典研究家を代弁しているはずの彼の推察する古代人のものの見方は、古代に限ったことではないだろう。サルが進化して尻尾を落とし、ヒトになったとする進化論者が主張のように、わたくしたちは、古代の思考法という尻尾を切り捨てて、中国そして欧米の進歩的思想へと進化してきただろうか。たしかに、合理性に価値を置く日常のものの世界では、ある日、洗濯板が電気洗濯機に変わったように、短期間に縄文土器が弥生土器にとって換わるという劇的変化はしばしばある。しかし、ことばの世界では民族がそっくり入れ替わる事態でもないかぎり、母語による言語精神が激変したり進化したりはすることはないのだ。昨日の洗濯板も今日の電気洗濯機もあいかわらず、同一言語を発っする同一人物が使っている。
人と自然とを相対化しないで受け止めていくわたくしたちのおもひの論理は、古代からかわらず、ごく普通の本音でくらす日本人のものの見方である。ただし、身辺のものを見る限り、欧米型の生活様式となって久しい現代のわたくしたちは、一方で、日常の社会・経済活動では西欧型に翻意された一種のフィクション世界に身を置いて、ものを対象化しながら抽象概念思考(欧米のような厳密な概念思考ではない)もどきをして、他方では、仕事から離れた家庭や、ひとりになった時の本音の世界において、母語による言語精神に還り、ものを対象化せず、相対化せず、そこで生まれだす総体としての視座のひらきへ与するかたちでものごとや自己へ対処したことば=おもひをひらいていく。
「あァ、ぼォッとしてた・・・。」
などおもわず漏らす嘆息めいたことばがそうだが、認識主体としての「人間」という概念さえたかだかこの二・三百年前に発明されたにすぎないというヴィトゲンシュタインではないが、わたくしたちにおいては、そんな西欧型概念思考を導入し、その考え方が定着してまだ百年あまりしかたっていない。主客を分かつことでしか機能しない抽象概念用語にくらべると、このようななにげない嘆息めいたことばでありながらも、その深度は深い。伊邪那岐命と伊邪那美命が「あなにやし、えをとこを。あなにやし、えをとめを」と言い交わし古事記がかきとめた国生みにまつわる有名な言葉同様、無文字時代の言語精神にまでたどれる古層に属することばであり、身体化されているゆえに、母語特有のうつくしく、かわいい響きのひろがりをもっている。
こころの底からの喜び、あるいは悲しみ、怒りにとらわれたとき、現代人は、われ知らず、身体化された古いことば遣いに還ってしまう。その時、ナリスマシの視点からの抽象言語の意味の射程は、世界の表層にとどまるに反して、母語にもとづくこれらのことばは、動的局面に応じた主客未分化の、したがって直接的な意味領域をもこえて一期一会ともいうべき非常にふかい全体世界の在りようをひらき出してくる。
わたくしたちは常に、この二つの異なる世界を*スウィッチングをしながら暮しているのである。別のところでも触れたが、明治初期の国家が雇った高級外国人教師から見た日本人哲学者への感想がある。当時の輸入哲学だからドイツ人かイギリス人だったか、「日本人哲学者の住まう家は二階建てになっている。わたくしとの議論は階上の洋間で理路整然とすすめ、しかし彼は、たえず階下の畳の部屋へおりては和服に着替え、お茶をすすってまた、上がってくる。」と、もちろんこの建物は、彼がみた日本人哲学者の精神構造の例えである。
今後も母語が存続するかぎり、わたくしたちの無意識裡の本音では、概念化による捨象、抽象化をしながらも、それを表層のできごととし、我も対象もひっくるめて、あらゆる物をありのまま動的な輝きのままに直く受容していこうとするだろう。それがわたくしたちの基本的なロジックフィールドなのだから。中村元が西欧言語精神と印度言語精神との抽象概念に関する思考法の違いについてこういっている。「西欧人は、抽象名詞の表示する抽象概念は、日常経験からそれの普遍的意味だけを抽離して抽象的に構成されたものだと考えている。比して、インド人は、それぞれの経験的事実のうちに抽象的概念が、何らかの実体的原理のように内包されていると考える。彼らの思惟方法は、個物あるいは、特殊者の本質は、それが担持し、それが具現している普遍にほかならなぬのである。結果、抽象的な堅さと具体的な堅いものとの区別が、区別されずに使用される。抽象観念が、同時に具体的な事物として表象される。抽象名詞が、具体名詞として用いられる。抽象概念や時間的な観念も実体性ある物体であるかのように表象されるのである。」また、日本語という母語言語精神によるものの捉え方について或る人曰く、「古語は、本質喚起的なものであるシナ欧インド語とは違う。存在の分節形態を対象として捉えない。さまざまに分節された事物の世界のなかにあり、それらに接しながら生きながらも、それぞれを一つのものとして凝固させる本質を認めない。分節形態が、経験的事実として現前していても、ただそれらはそういう形で現れているだけで、本当はないものであり、いわゆる本質は虚構であるというのが、龍樹の中観から唯識へ到る大乗仏教存在論の中枢的テーゼをなす空観であるが、それらや老荘など東洋哲学の最終に目指す会得境地である。しかしながら、ちょうど母国語においてはかような聖者のような態度が誰にもとれるのである。」
しかし、この時代、言語精神間に横たわるこれら思考法の決定的差異を自覚することなく、とりわけ時の権力のひとつにちがいない学のシステムは、現今の環境とか平和とか、ほとんどの抽象概念命題がそうであるが、欧米近代思考を唯一の世界基準に、ひたすらものまね概念思考を推し進め、この国へ強要していこうとしている。このままこの傾向が加速していけば、概念の意味するところとは裏腹に、かならずや、それらの概念・論理は、臨界点を迎える。そしてささいななにかをきっかけとして、政治、経済や法律などの社会システム、及び文化全般にわたる全面崩壊をもたらすだろう。
その理由の第一は、わたくしたちが、母語を使用しながらも、そのルールを自覚化し得ぬまま、欧米型思考法という概念思考に一方的に走ってしまうと、気づかぬうちに母語に備わる基本的なロジックフィールドの枠を踏み外してしまい、業界、学会などにみられるセクト化など将にそうであるが、そこに起因する母語言語精神との乖離空間が、巨大な虚無空間に変質してしまうからである。そうなると、分裂してしまった両極の融通性は失われて、もはや内部からの修正は効かずに崩壊を待つだけになってしまおう。悪意の第三者が、大学とか研究所とかいわれる学問を標榜する無知なる内部者を手なづけて、彼らの手引きのもと、虚無空間を意図的につくりあげ、それを突き崩す作業は、時間のベクトルさえ読み違えなければ、簡単な戦略ワークとなる。しごく単純な論理である。日常経験から普遍的意味を抽離して抽象的に構成された欧米の抽象概念は、わたくしたちが思い込んでかってに意味づけしている抽象概念とは違うのである。て・に・を・はという母語に浮かべた抽象概念は、その瞬間に、概念から概念の本質である関係規定が抜き取られ溶解しはじめる。大学や研究機関が、中立なる学問の聖域であると妄想する多くの偽善的学者は、これら抽象概念とその関係間の論理構築を母語で運用しても、欧米言語精神の概念運用に伍していけると信じているようだ。が、その勘違いは社会をクラッシュに導いてしまう。結果がまずいことになっても自己の犯罪性は棚上げし、学際的な研究が不足していたなどと無責任に嘯くのは見えているが。
第二は、概念思考の崩壊という過去の経験則が教えてくれるものである。明治の近代化をいそぐあまり、その過程で、母語精神と欧米言語精神との思索の根本的差異をあいまいにしたまま欧米型論理を真似て概念思考を運用していった結果、最後は敗戦で破綻するほかなかった政治・経済のあり様。また、それと同時にパラレルに現象していった日本の戦前美術史や京都学派を筆頭にした哲学史の硬直した観念空洞化のわかりやすい崩壊例を西田の世界的世界形成の原理や当時の日本哲学雑誌ナチス文庫にみるからである。戦争は、政治・経済の一形態にすぎず、芸術文化はそれらの反映であるという見方に立つならば、おそらくあの敗戦がなくとも、母語言語精神への深い洞察のないままに、膨張しきった当時の虚無的概念空間は、ちがったかたちで、遅かれ早かれ、同規模の崩壊に向かうしかなかったはずだ。
ところが、戦後には、抽象理論の構築は空虚な言挙げにつながるという母語精神と欧米思考との差異の問題は追求されるどころか、その問題は封印されてしまった。そこには、敗戦につづくGHQの占領政策もおおきく影響しているだろう。しかし、もともと、宣長が排撃する漢意(からごころ)のように、近世以降、あるいはそれ以前からわたくしたち自身に内在している漢意(からごころ)というもの。そしてそこから洋意(ようごころ)へ敗戦を機に変身してしまうナリスマシの傾向性にもその過半の原因が求められるように思われる。
儒学全盛期にあった宣長の指弾する漢意(カラゴコロ)の蔓延にくらべ、現在はそれをはるかに凌ぐ洋意(宣長に倣って仮に、ヨウゴコロとしておく)全盛の時代である。欧米文化がその圧倒的に優位な軍事力、金融力、近代自然科学や情報技術力を背景にして全世界を圧倒しつくし、それを受けての地球的規模の事態であるが、近代自然科学ひとつ例にとっても、その受容と応用にみられるように、わが国では、もはや科学は、ユニバーサルな普遍原理として受け止められてしまっている。表立って、その成立根拠と限界を母語による言語精神で問いかける者など例外中の例外か、よくても奇特な話のひとつくらいで片付けられる時代だ。さらにいまや、ITの拍車もかかり、欧米の尺度だけにもとづく世界標準の一元化された学問システムを中心に、ふたたび、わたくしたちはナリスマシ族主導のコンセプチュアル思考の暴走にまきこまれ、戦前以上の空洞化の極限にまで進もうとしているのが現状である。
このまま、両言語精神間の思索の差異の自覚なくして事態が進行していくようであると、その結果は先の大戦以上の、悲劇的事態を招くだろう。次に待ち受けているクラッシュは、政治力学の一形態にすぎない戦争とは、まったく違う想像もできないかたちをとって顕れるはずだ。
だからといって、過去から未来にわたっての印欧中の文化や近代自然科学を排斥しようというのではない。ここでは、普段なじんだ母語による思索を深めて、そこで練られた視点からそれを梃子に、ナリスマシ視点を排し、母語言語精神の相対化された時にあらわれる弱点を自覚した上で、現在を批判的に思い込みを排した冷徹な論理でもって組み立て直す作業なくば、自らの社会・文化は病んでしまい、存続さえも覚束なくなってしまうという、どの言語文化圏にも妥当するあきらかな原則を述べているにすぎない。この問題を等閑視したままにすると、わたしたちの意に反し、気づかぬうちに、学問という権力を背景にしたナリスマシ族が手引きのもと、戦略的な外圧がかかるのは必定であり、その病の度合いに応じて、クラッシュの惨状もまた大きくなってしてしまうということである。いくぶん観念的になってしまったが、経済・社会の枠組みもとうにその傾向を示している。また、個人的なことではあるが、現代美術シーンにおける表現の有無をめぐる両言語精神間の葛藤は、視座の置き方をまちがえると正反対の結果を生じるものであり、瞬間瞬間、感情を排したところでの判断をせまられる目の前の現実問題である。
ちなみに、右に意図的に提示した「一本の棒のごときもの」は、線の一部であろうか、それともやはり棒きれか、引っ掻き傷であろうか。これを使ってなにか現そうという前提にたった上で、線と解釈すれば、描写表現のシステムに属する中国・欧米型の抽象概念思考(あくまでナリスマシの視点からである)がはたらきだす。一方、棒かあるいは掻き傷として具体的な存在物としてうけとれば、そこにそれを縁起として、言挙げせぬという沈黙の許に、その「物」自体から全体的視点に聴き入り、そこに添った物付けをしていこうとする波状口縁尖底器の時代から現代モノ派にまでみられる、母語による具足的な言語精神がはたらきだす。
あまりに単純化しすぎて、わかりにくい例になったかもしれない。(コンセプチュアルアートに属するイタリアのルーチョ・フォンタナのようにキャンバスの物理的ナイフ傷をそのまま作品として提示するものもある。がそれはここでいう主客未分化の全体的視座を生み出しはしない。あくまで概念としての反芸術であり、オブジェクト芸術なのである)。しかし、ここでは欧米型言語精神と母語言語精神というものがわたくしたちに同時に存在しており、このそれぞれの受け止め方による言語精神の発動のしかたは、結果として、まったく異なった世界像を結んでいくということを察していただければよいのである。
そして、この「一本の棒のごときもの」になんでもいいが、ある抽象的「概念」を置き換えてみるといい。その「概念」に対するわたくしたちの思索は、この「一本の棒のごときもの」に対すると同様に、やはり二つの方向性をもってはたらき出すことが分かってこよう。どんな国の言語圏においても、「物」と「言」へたいする言語精神のアプローチというものはまったくパラレルな動き方をしているのだ。わたくしたちの母語による具足的な言語精神は、ことばを具体的な言=事として、その「ことば」自体から生まれ出した全体的視点に聴き入り、そこに添った「おもひ」がはたらきだす。すくなくとも母語言語精神のはたらきが昇華されたところの和歌・俳諧においてはそうだ。ことに連歌・連句はこうしたはたらきそのものが主導したところで成立している。
ところで、「一本の棒のごときもの」を描写のための線としてとらえれば、その描写における構成部分としての線・面との関係性こそが見られていかれねばならない。それと同様、「概念」にたいしては、概念の本質定義と、そのほかの概念や判断との関係性、論理性というものを主体に見ていかならなければならないはずだ。そうでないと概念の文脈のなかで果たす役割、意味はなくなろう。他との関係なしには概念自体は定義された意味機能しか持たないのである。しかし、母語に暮らすわたくしたちは、概念思考にナリスマシしできたとしても、ついつい、やまとことばに対すると同様に、関係性を無化して、その概念自体に「物」そのものと同様の深い意味合いがあるかのように錯覚して、なにもないところに深く聴き入ってしまう。その背後にはあらゆる言葉には言=事としての具体性があると観る母語精神がはたらいてしまうからであろう。こうした思索の方向性は、論理的な抽象概念思考とは正反対のものである。
概念定義の奥にさらに意味があると求めていく心性は、えてしてそこで社会経済条件を反映した共同幻想に捉えられたとき、概念に神秘的な意味を付与してセクト化の傾向を呈し、場合によってはカルト化にまで到る。欧米言語精神のうみだした美学視点にナリスマシ、抽象概念のもとで業界内用語に閉じこもる美学学会や、その他思い当たるはずの多くの何々学会といわれるものの大半がそうであろう。概念にそれ以上の意味性を賦与してしまうこの心性構造は新興宗教の題目の果たす役割となんら変わらない。「純粋経験」から「絶対矛盾的自己同一」へそして「大東亜共栄圏」から「一億総玉砕」への道のりは遠いものではなかった。それはたんに欧米連合軍の戦略的包囲網がもたらした政治経済の突出した結果論であるばかりでなく、母語言語精神と、抽象概念による思索のありかたの相違を明確にできなかった明治・大正・昭和という時代精神のありかたにもその原因の一端を求められるべき現象ではなかっただろうか。
日常に論理的な思考は必要不可欠だし、そこで社会的な合意により定義・使用される概念・論理には概ね異存はないだろう。しかしこうした概念は欧米の厳密な定式を構成するパーツとしての概念ではなく、あいまいに単語のもつ意味くらいに受け止められている。先にあげたように「西欧人は、抽象名詞の表示する抽象概念は、日常経験からそれの普遍的意味だけを抽離して抽象的に構成されたものだと考えているのだ。」さらにこのあいまいな概念がひとたびこの国の専門機関で再定義されたときには意識あるいは無意識裡に機関の利に適うよう、あらぬ意味が付加されて、その語がふたたび流通するころには、思考停止のたんなる題目にすぎなくなっている。結果、母語による言語精神のはたらきを奪ってしまう。そこに戦略に長け、物のいのちに聴き入るなどの感覚とは無縁のひたすら抽象思考で概念を組み立ててくる第三者からつけ込まれるスキがうまれるのである。昨今の環境問題などもまさしくそうである。物に事に聴き入ろうとする言挙げせぬ母語精神はけっしてそんな粗雑な精神ではないはずだ。そしていまでもわたくしたちはこの思索のベクトルの違う二つの見方を明確に区別せずに一人の頭のなかに両立させ、状況に応じた都合よい使い分けをしているのである。
ひとつ 「余白」ということばを例にとってみよう。「山水画は、日本文化の特徴である「余白」を活かした芸術である」などという使われ方をする。また、「余白の文芸」とよばれる俳句がある。能のように、「余白」は神秘的なものとして、ものいわぬことで観るものを呼び込む表現だともされる。こういわれると、誰しもこの深い意味あいを蔵していそうな「余白」に納得してしまうしかないだろう。しかし、もともと「余白」とは二次平面上に構成されたコンテンツのマージン=余白のことである。「余白」は二次平面という現実を捨象・抽象化したところで成立した平面空間に、描写表現されたコンテンツを構成する際のレイアウトデザインに関する用語である。(三次元空間であろうとそこに抽象化原理がはたらいたものならば、二次元空間と同じ指摘が妥当し得る)。このことばが使用されはじめたのはいつ頃だったのか分らない。そんなに昔ではないだろうが、たとえ時代によって英語とのニュアンスの差にいくぶんの開きがあったにしても、そのことばの持つ原理と、その意味領域においてはマージンも余白もそう違ったものではなかっただろう。つまり、「余白」ということばは、ここでいう抽象化しないことで母語を活かすという言語ルールからは外れて、抽象化原理を前提とした言語精神の空間把握にナリスマシした視点からみているのであり、抽象概念の一種の「余白」には概念定義以上なにもないはずのところに、神秘的意味が附与されているのである。
この国の言語精神は言挙げせぬ国として、抽象原理によらず、宣長いう「もののあはれ」としての世界のひらき方をする。それを、美術評論家のみならず、制作者側までも「余白」に神秘的な意味を附与して、そのまま伝統的な日本の芸術作品を評価・制作作業をするときのキーワードにしてしまっている。これでは、先史時代の縄文の意味も和歌・俳諧の意味もそして多くの芸術作品の意味も探れず、未来の作品制作にも繋がっていかないだろう。母語言語精神の躍動がうみだしたひとつの結果にすぎないものを抽象原理によって観て、そこに神秘的な意味づけをしているのである。母語精神が抽象化された座標空間に反映された場合、そこに余白を招来してくるのは「たまきはる」あるいは「たまかぎる」という一種の「無限と限定」に関わる母語の独自思索のはたらきかた=その全球的指向性からみた場合に、当然予測できる結果のひとつであるが、(本論二、参照)その結果にすぎない「余白」へとことばの視座を移して論理思考をはじめた途端に、そこで、涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけていかんとする母語精神は思考停止に陥ってしまう。「余白」ということば自体からはなんのチカラも聴きだすことはできない。「余白」は題目と化して物を死んだ空間に閉じ込めてしまうのだ。よく先史時代を「あのころの呪術世界は・・・」などといって済ませることが多いが、そういってわかったつもりになっている現代こそ、思考停止のまま、この場合余白にあらぬ神秘性をもたせて世界を解釈しようとする呪術世界に陥っているのである。そうした意味では物・事に聴き入ることで物を輝かせてこようとした=思索を続けてきた先史時代より、現代のほうがはるかに呪術度の高い世界であるといえよう。
もともと抽象化をしないという母語の言語精神は、余白を生み出そうとはしていないし、余白に語らせようともしない。反対に、世界は、奇異(くすしあやし)さにあふれた躍動する世界であり、ひしめく具体存在で成り立っており、主知を加えずにそのありかたをありのままに輝かそうとしているのである。そこになにもない空間などはじめから存在しないことを知っている。歌・俳句にしても、言に聴きいり、言挙げせずに、事にそって成る具体存在をひらいていこうとはしていても、余白を創り出そうとはしていない。「余白」とは、物を抽象空間に映しこんだ際に母語精神が必然してしまうひずみを、抽象化されたナリスマシ視点で固定してながめ、もはや思考停止した己の頭のなかのその空白状態を再帰的に視たことばにすぎないのである。母語による思索を深める際の障害にしかならない「無」や「空」などと同じ抽象観念用語のひとつなのである。捨象・抽象を成立させているプラットフォーム上へ母語言語精神が投影されるとき、そこに生じる美術的物理空間のひずみ率と、そこへと観点を移動してみえてくる世界のひずみ率とは等値である。(余白でいえば世界の余白率とでもいおうか)その関係式は、そのまま抽象概念を要素とする近代思考が形式論理を母語空間へ持ちきたしたときに生じるひずみと、そこから解釈された世界像のひずみとの関係にも妥当する。後述の、ダ・ビンチの絵画構成視点とルネッサンス思想を成立させている視座とが同一の言語精神原理の裏表の関係であるがごとくに、洋の東西を問わず、表現された当該美術空間形式と思想空間形式というものはいつ、どんな世界にあっても同一の言語精神のうらおもてとなっており、その後も両者の相関関係はパラレルに発展進行していく。
イスラム思想や東洋哲学に通暁していた井筒俊彦や、他の叡哲も教えているように、対象との一体感を大事にする東洋一般の思考にとっての、欧米的概念思考の本質というものは、物のいのちをころしたところでしか成立し得ない死の思想ともいうべきものである。まして言挙げせぬことで森羅万象をあるがまま、動的に受容していかんとする母語による言語精神にとって、対象と観察主体とを分けて捨象・抽象思考していく西欧的理(ことわり)思考のあり方は、物にそって言を深めていくべきわたくしたちの心性からみると、逆に、思考を停止してしまった考え方であるといえる。そんな欧米思考法で母語言語精神を封印し続けることなどできるはずがないのであるが、そもそも、これら両者の思索の方法の違いの確認なくしておこなわれているのが、この国の学問、芸術である。これらは、自然科学がそうであるように、中立客観を装いながらも、実はその拠ってたつプラットフォームは、当該社会のいだく功利であり、保守であり、幻想という楽観的合目的性に還元される類のものである。ここは、まず、有史から先史にわたる古代の論理を尋ねて、母語と、欧米言語による思考の違いを明確化し、それを自得し、梃子としたうえで、勘違いにもとづいたナリスマシ族には降板していただき、外に向かってはナリスマシの半端な視点からではなく、冷徹に未来を見通す独自の徹底した戦略的思考で臨まなければならない
しからば、「言挙げ」とは果たしてなんであろうか。豊田国夫によれば、古代文献では、特別表明とか、忌ましめ、謹み、などとの関連用法とされている。一般的には個人の意志を明白にする態度であり、それは御杖のいうように神を殺すことにつながり、忌み、慎むべきだと受け止められている。 「言挙げ」した結果、神の意志を越えてしまい、命を落としたとされる倭建命。しかし、その彼の 「言挙げ」という慢心を今日解釈するように個人的な心の存り様にのみ還元しつくすことは間違いである。その受け止め方は、人間という主体が道具として言葉を操り、表現やいのちもその基体に所属するとする現代的な解釈から出たものにすぎない。古代文献に散見される「言挙げ」は、それ自体への言及もタブーとされていた周知の基本不文律のはずで、古代文献の数少ない記載の分析からのみ、その本質を解明することは難しいであろう。「言挙げせぬこと」は個人的モラルなどに還元し尽される問題ではない。それは西田幾多郎が、時局の要請で「我国特有の主体的原理は己を空うして他を包むことである」といって東亜共栄圏思想の根拠とした理論にまでも繋がってくる社会も個人も含めた広い領域にかかわる問題であり、なにより、もっと、深いそれこそ「事挙げせぬ国のメタフィジカ」ともいうべき「言」と「事」と「物」との関係の哲学的な根本問題でもある。
「物」を「事」を対象存在として概念思考に絡めとった瞬間に「物」はそれまでの輝きを失ったただの物質存在となる。同時にその「物」を対象存在に貶めた、物のひとつである「人」もまた、観念的な存在に貶められて、そのいのちは掻き曇って死に至る。あらゆるものをあるがまま動的に受容しようとするのが無文字時代の言語精神である。当時のひとびとにとっては、「言挙げ」する主体を前だししたり、抽象化したものの捉え方や表現が何をもたらすものなのかあらためて説明する必要もなく、みなよく知っていたであろう。
ちなみに、「言挙げ」の「挙げ」とは、連歌・連句における最後の七・七を指す「挙げ句」の「挙げ」と同様に、「こと(言=事)の終了を指しているだろう。「言」を「挙げる」とは、ある見地を設定し、その論理でもって「事」を割ることになる。その見地が慢心という主体の設定であれ、事象を対象化することの意味への省察を忘れてしまった現代の科学的主観の設定であれ、観念的主体が設定されて、「言挙げ」となった瞬間に、そこで「言」と「事」は分離し、「事」はおしまいになる。これが、連歌連句の座の出来事ならばよいが、リアルの世界では、「言挙げ」とともに、永遠という無限の変転を重ねている事象のイマは途切れて「事」は終了し、死んでしまう。その神話的に解釈されたわかりやすい例のひとつが、倭建命の慢心により、「言」が主観に属してしまった「言挙げ」の事態であろう。倭建命の「言」が、慢心する主体を設定し、同時にそれに対応した事象を主体と同様に抽象的な対象と化してしまったのである。そこでは、本来主観にも、客観にも属していない「事」世界において、「言」は「事」に添ったものとならず、観念となってしまい死を迎える。
そして、この「言挙げせぬ」という禁忌法は文字という「言」を固定化する装置を導入したために、言挙げにつながりやすくなったはずの万葉以降のひとびとにもタブーとして継承され、いまにさえ連続してわたくしたちの基本的な不文律として活きている。それは、当文字考でも触れたように、文字導入に際し、世界でも類例がないような表意と表音のまったく異なるふたつの文字システムを並存させ、母語の本分を「かな」によってそのまま活かし、抽象概念は「漢字」へとふりわけて、母語精神のちからをそがないようにしてきた、先人の努力と、賢明さがはたらいた結果に他ならない。そこで、一見、抽象概念や翻訳語であふれかえっているいまにおいてさえ、これら現代語の基層には、古来よりほとんど変わっていない母語精神が温存され、肝心な局面では、その母語精神が強い規範力を発揮して前面にでてくる。
また、これに似た不文律は日本にかぎったことではない。ネイティブアメリカンのある人に、ティッピー(インデアンテント)に招待を受けたとき「わたしたちは、白人の考え方をキ印と呼んでいる。彼らはわたしたちが禁じてきた頭だけでする思考、抽象思考に走るからだ。わたしたちは・・・」と、みづからの分厚い胸を指差し「胸で、体全体で」そして、ティッピーの中央の炉の、そのまわりのなんの覆いもかけず先祖からそうしているという意図的に残した表土を指して、「この大地とともに考える」と強い調子でわたしに語った。頭のなかで概念論理を構成した考え方がいかに、身体を媒介にした連関する全体世界という「物」の輝きを死へ追いやるものなのか。この問題は、自分たちが頭の中だけの概念思考をタブーとしていても、そんなタブーは未開の風習だと一蹴する現代人に、否応もなく滅亡の淵にまで追いやられてしまった彼らにとって、いまなお、わたくしたちには想像もつかないくらい苦しく切実な最大の問題でありつづけている。これは西部開拓時代の話ではなく、現在の話である。そしてそれは、今日のわたくしたちの母語精神の基本にもかかわってくる問題である。
主題にもどす。この器は絵、つまり描写という抽象化への誘惑には一切のらず、なんらの表象化をも強く忌避している。そのタブーのはたらいた証は、器の表面を、表現するための基体とはせず、反対にイメージ(イメージとは観念であり、ありとしあるのものを直く受容する際の妨げとなるものである)を寄せ付けないよう、物へ具体的な縄文を添わせて器のかたちと一体化させていく(貝殻という具体物による条痕文も含む)この縄目(条痕)のはたらかせ方にある。縄文時代のこの縄目がアボリジーニの抽象文様やシャイアンのティッピーに描かれた部族ストーリーやトーテムのように、その部族の物語り性をもつかどうかはわからない。しかし、ここで重要なのは、縄文にはたらいた思想は、陰陽という理法の許で、冷酷なまでに抽象表現を極めつくした殷・周の饕餮(トウテツ)文の思想とは、抽象化プロセスの有無、すなわち表現描写というプラットフォームを置くか置かないかという意味合いにおいて、まったく対極に位置した造型哲学であったということである。
三次元世界を二次元世界へと抽象し、器表面を表現タブロー(ここではタブローを広義の支持体の意として用いた)とみなして、そこへ陰陽原理を線刻した殷・周の抽象世界。それに対して、すべてをありのまま受容せんと、捨象化、抽象化、イメージ化をタブーとし、具体的な物へと物を這わせていった縄文思想。(どの国の古代土器にもみられない独自のものとして、縄文前期からみられる口縁突起に施した人面イメージ表現の意図的な破壊などには、このタブー思想が凝縮されている)したがって、この両世界が受容する世界は山や星や川の輝きひとつとっても、甚だしく相が異なった内容となっているのである。ただし、この国もやがて中国朝鮮の影響の増大と共に、弥生と呼ばれる時代が、縄文に取って代わられる。そこでのものの表現は、弥生土器や同時代の銅鐸に施された文様や絵にみてとれるように、中国朝鮮の影響をうけて土器表面を二次元タブローとして扱い、また縄文ではあまりみかけなかった鹿や、争う人々を主題もとした線刻表現となっていく。やがてそれらは、その後の船や馬、鳥を描いた装飾古墳の彩色(彩色という色による構成表現もまた、抽象化のプロセスを経たうえでしか可能とならない)画にとって換わられ、ついには高度抽象化原理でうみだされた漢字を受容した辺りで、印中朝鮮思想の影響を濃くした正倉院壁画の時代を迎えることとなる。
いささか繰り返しになるが、そのはたらきがまったく相反する言語、たとえば、西欧近代のように表現のために他視点を捨象し、抽象した結果のパースペクティブな造型視点に必然するに至った抽象概念で論理思考するインド・ローマン語系文法。他方、抽象を排して、物にそって聴き入っていくわたくしたちの母語の思索のはたらき。その両者はまったく相の違った言語精神にある。その言語精神の違いは、古代土器の文様や絵画に直接反映されている。他言語文化圏とくにインド・ローマン語系の古代土器は、構築的な性格を備えたフォルムへの傾向をもつ。そして、そこへ施す文様や絵は、タブローとしての器と切り離すことが可能であり、独立してはたらく文様や絵として機能する。一方、この尖底器に代表される縄文土器は、器を縄文のタブローとしない。両者を切り離すことはできないのだ。文様を分離すれば形自体が失せてしまうのである。
「最後の審判 修復作業風景」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 Leonardo da Vinci
現実の抽象空間である一点透視画法の代表例。 撮影 有
ところで、絵画とはタブロー(以下、タブローを広義の意味合いで支持体として使用)を前提として成立している。古代土器であろうが、アルタミラの洞窟壁や大伽藍の天上や壁であろうが、近代のキャンパス地であろうがタブローはそこへ表現を受け止めるメディアとして、現実を抽象した観念のゼロ場として機能する。三次元の立体を二次平面へと抽象し、つまり現実を捨象して基体としての二次元へ落としたタブロー上で、さらに抽象化された空間形式である、画面外に一点に収束する視点をもたせたパースペクティブな図法でもって、共同幻想や個人の観念イメージを映しとったものを、特にルネッサンス期の抽象化された空間形式図法で構成化し描写されたものを一般に、わたくしたちは西欧絵画とよんできた。この描写表現の原理プロセスは、時代の進展と軌を一にして西欧言語の表現法とは常にパラレルな関係で発展してきた。西欧言語では、日常経験をふるいにかけて普遍的意味だけを抽出し、そこで得た抽象概念をさらに最上位の抽象化されたゼロポイントの極点=神に保証され、もはや神と同等になった視点のもと(いや、ダ・ヴィンチのこの視点はすでに神から奪い取った視点であったが) やはり現実を抽象した観念のゼロ場上で抽象概念を構築・論理づけていく。
一方、抽象的視点と観念の場を設定しないことで世界をありのままに輝かせようという言挙げせぬ国において、普段そんな自覚もなく、わたくしたちは翻訳抽象概念による欧風論理思考もまたじぶんたちで可能であると信じ込んでいる。だが、遠い極東の異国のかってなおもいとは異なり、西欧言語には数式に準じた、あるいは確固とした遠近透視図法に代表されるような神に成り代わった抽象的ゼロポイントの視点と、抽象化されたプラットフォームとがペアになり、そのシステム自体は先験的な存在として不可知とされ、そこを場として徹底した抽象論理思考がはたらいているのだ。そしてそんな欧米の抽象思考は、その一つの現象である美術界において古典的なパースペクティブ視点が廃棄された後、多様な展開をしながらもその作業が拠っているプラットフォーム自体は常に同じものである。キュビスムとかフォーヴィスム、ダダイズム、シュルレアリスム等の近代芸術思潮はここでは割愛するが、その後の物を対象とした物質(オブジェクト)芸術や概念芸術(コンセプチュアルアート)においては、その命名自体が直に彼らの歴史的抽象思考の本質を示していよう。ひところのインスタレーション、パフォーマンスにおいても抽象化された時間のベクトルが加えられただけであり、さらにイメージを拒否した反芸術運動でさえ、その主張を成立させている抽象化による場の原理は古典絵画時代とすこしも変わっていないのである。今日のIT化で、ポップアートや日本のアニメを巻き込んでの汎世界的な流行をみせているメディアアートやコンテンツ芸術においても事情は同じである。
余談になるが、エッフェル塔や洋上の島を梱包し、パッケージアーティストとして知られるクリストがいる。画学生のころ旧社会主義国家であったハンガリーでライオン街の制作に動員された経験をもつ前衛アーティストだ。アリゾナと筑波間でのアンブレラプロジェクトなどを通じ、日本でもよく知られている存在だ。その後、ピラミッドを梱包しようとしてエジプト政府に申請をだしたら、ラーの魂を封じ込めるなどとんでもないと、にべもなく却下された話が、ジブンのところに伝わってきた。ジブンもナバホと伊豆間の同時石積みワークや中東砂漠でのワークなど、彼と相前後した時期に同じような作業経験をもつが、不思議に同時代の作業は言語文化圏が異なっていても、発想自体は似てくるものである。そこに感心する一方、その方法論の差にはいつも驚かされる。こちらは抽象的観点を排したところで、物にそって物を付け合いすることで場を開いていこうとしているのであるが、彼クリストの場合はやはり初めにコンセプトありきなのである。パッケージならば、その規模の大小は関係なく概念から演繹していくその論理構成の良し悪しがアートとしての成否を決定づけていくのである。フィールドワークにおけるリチャードロングなどの作品も一見日本庭園風のアレンジに似ているが、やはり抽象思考のもとに構成されて成っているものである。そこにおける視点は対象をタブローから自然へ変えただけのものであり、当然のことながら、欧米の伝統的抽象視点を排して、全体的な視座へ転換しようとする志向性は微塵も持ち合わせていない。
それに対して東洋絵画の特徴は、西欧絵画のパースペクティブな一元視点から構成されたものとは異なり、多次元視点を同一画面に共存させる構成にあると一般的に言われている。その例によくひかれるのが中国に発する山水画である。西欧画の一元的な視覚重視の方法に対して、 一体化の観点から多元的視点を一元的にまとめず、それら多彩な視点をも同時に全体的な視点へと組み換えるいわゆる高遠、深遠、平遠の各視点を同一画面にまとめる三遠法と呼ばれる手法がそうだ。ここでは多角視点を動的に受け入れて全体性を受け入れていこうというはたらきがある。しかし山水はあくまで山水として世界の取捨抽象のプロセスを経て、現実を二次平面へと映し、観念を再構成してイメージ描写をした墨の絵である。そこには、二次元化にともなって捨象されてしまった世界がある。
ところが波状口縁尖底器は、一点一線の描写をも退けている。そこに施された縄の目は、精確にいうと、デザインとしての文様表現でもない。抽象化にともなう捨象を一切しないで器のひらく宇宙と一体化せんとして具体的な係わり合いを求めていった姿そのもの、その姿勢が炎によって刻印されたものである。こうして形成された器は、それ自身が表現を忌避し自己主張を避けるという具足的な精神へと昇華する。そこにおいて初めて。あらゆる具体存在を、あるがまま共存させて受容するということが可能となる。そのためか、もはや人さえ寄せ付けぬまでに表現を極めつくした殷周青銅器とちがい、この尖底器は、威圧的でも、権威的でもなく、あるいは、奇怪でもない。おだやかな口縁に波をたたえて、なかほどでゆるく膨らみ、そして、なだらかに逆三角錐に窄みゆくやわらかなフォルムを持つ。そこへと縄文が一体化を果たしている。
かくして、波状口縁尖底器は器の本質として物を入れる空(うつ)の機能をもつのみならず、その器そのもののあり方からして、すでに空(うつ)なる存在となって在る。捨象しないはたらきが在るゆえに、ブラックボックスとして、多様な視点をもったものさえ共時的に受容し、物、事を包み込んでいけるのだ。それは、「て・に・を・は」に代表される母語の世界受容のありかたと同じである。いや、逆にこの器が、母語精神を生み出しているとさえ言い換え得る。そしてこの精神は、「己を空うして他を包む我国特有の主体的原理」と戦前、西田幾多郎にいわしめた問題の「世界新秩序の原理」論文やポストモダンの世界的潮流にもまれた後、70年代に生み出されたモノ派の一連の作品など現在美術の最前線にまで数千年ものあいだはたらき続けているのだ。
日本列島の長い美術史のなか、縄文後に母語精神の自発的なはたらきで成った真にオリジナルといえるものは、このモノ派の美術と現代舞踏以外にあっただろうか。大概は、輸入された表現形式をベースとして発展してきたものであろう。一般美術史で扱われている日本美術は外国言語文化圏で発生した彼の国の言語精神が反映した作品の直輸入か、物真似、そしてそれらの国風化、和様化されたものである。いかにもわが国独自の芸術絵画が華ひらいたといわれている桃山期や江戸初期の山水画さえ(雪舟の一部水墨、光琳の燕子花図と紅白梅図そして等伯の松林図という特異作品は例外として)厳密にいえばその例に漏れたものではない。オリジナルでなければならないなどと言うつもりではないが、日本美術史は独自に自発的に発展進化してきたものではない。弥生絵以来、現代美術にいたるまで、そのつど、移入された芸術思潮を日本化、和様化するという行為を繰り返してきた。その反復の歴史である。それらを単に時間順に並べたものが日本美術史とされている。
縄文以降の具体例をいくつか取り上げてみる。銅鐸や土器に遺された線描主体の弥生絵というものがある。そこではもはや捨象・抽象を避けた縄文一万年のタブーは無視されてしまった。三次元を二次元に抽象したイメージ表現となったその絵は、器や銅鐸というタブローと切り離しても成立する。この絵は中国・朝鮮の言語メンタリティーで描かれたものだ。それ故に地域的な広がりをもたずに銅鐸の消失と軌を一にして急速に消滅する。そのあと、古墳の彩色画が出現するが、これもまた高句麗や中国絵画のダイレクトな影響を受けていることはあらためて説明の必要もないだろう。古墳の石壁を二次平面のタブローとして、幾何学文様、そして鹿や鳥、星座という外来思想のモチーフで描かれている。終局期には高松塚古墳壁画にいたる。このプロセス検証から見えてくるものは、影響をうけたなどという生易しいものではない。原理の違う他国の言語精神に拠った表現をそのままもってきて、それをモディファイしただけのものである。古墳時代が終焉したあとは、漢字という高度にシステマティックな文字絵が輸入され、ここから列島美術事情は一変してしまう。
なお、逆行するが、この器より下ること凡そ三千年後、縄文中期には、現代人が生命感溢れると評価する火炎式土器がうまれる。この波状口縁尖底器とくらべると、やや、ゴシック的な表現に傾くきらいがありはするものの、たしかにあのプリミティブな躍動美は美しい。対して、この波状口縁尖底器は中期の基本モデルのような存在であり、火炎式を評する生命感溢れるといった通俗的で、近代審美感にもとづいた用語など拒否して超然としている。(*中国やインドローマン語系の用語で、この無文字時代精神のはたらきを分析することは、本来、原理的に不可能な作業である。たとえば火炎式土器の評価にみられるような、生命力あふれるといった形容をこの器は拒否してしまう。なぜならば、その漢語的造語あるいは、LifeやVitalityという欧米語の翻訳語にはすでに主客を分かつ概念的意味作用をもつはたらきが作用しているからである。)
この器は概念を忌避するはたらきでできあがったものである。つまり、この尖底器にはたらく法と同じ法がはたらく無文字時代言語に根をもつ古言・やまとことばで、物にそって思索を深めていかなくては、その本源にせまることはできない。欧米型の概念論理思考の流れをくむ考古学はじめ、文化人類学、民俗学また、芸術美学など日本の従来の学問のほとんどの分析作業は、この点をクリアできていないので、じぶんたちの足許の肝心な精神が汲み取れていない。
*スウィッチング: だれだったか、わたくしたちは文字使用において漢字という表意文字とかなという表音文字を器用にスウィッチングしながら使用していると的を得た発言をしていたが、この用語を借用した。文字使用においてばかりではない。わたくしたちは、肝心な世界観を結ぶさいにおいても、原理と、そのプロセス、結果がまったく異なる思考法をスウィッチングしながら暮している。近世は宣長いう漢意と母語による言語精神間で。そして現代では、欧米言語精神と母語言語精神との間で。
*ナリスマシとは:以下に宣長いう近世の漢意《カラゴヽロ》と現代の欧米を基準としたものの見方を合わせた意味として使用した。とりわけ欧米言語精神と母語による言語精神とでは、思考のはたらきかたが全くことなっているが、その違いの存在に理解がおよばないまま、この国で概念に頼った抽象論理思考をしていくと、概念へ定義以上の意味を附与してしまいがちとなる。その傾向が各種学会・業界のセクト化を生みだしている。関係性と切り離された概念はそれ自体では虚仮存在である。それにもかかわらず、母語による心性は、己を虚しくして、概念やことわりを「言=事」として概念以上のある種実体化された存在として受けとめ、本来なにもないところに全体的意味を聞き取り、そこへ身を預けようとしてしまう。そこで概念の本質とは関係のないその時々の意識・無意識裡の社会経済的な価値判断に発する恣意的な意味づけまでも概念やことわりにくみこんで、それを自己のものの見方や行動の基準にしてしまうのだ。それがここでいうナリスマシである。
しかし、漢意《カラゴヽロ》やナリスマシがもともと母語の指向性から生まれてだしている以上、こうしたナリスマシの弊害をさけるには、母語自身による視座をつねにあたらしく自得しておく他はない。あるいは、先史縄文の独自の先験的ともいうべき智慧が生み出した優れた工夫、-それはあるがまま物のいのちを輝かせるにふさわしい全体的視座を手に入れるためであるが、そのひとつである「観念の結んだイメージをわざと創っては破壊する表象忌避のルール(たびたび言っているがここでは土偶が病死した者の再生を願ったものであるとかのはたらきの内容ではなく、母語独自に備わっている存在論的はたらき方そのものの形式を問題にしている)」や俳句における切れ字のように「理(ことわり)の独走を避けてナリスマシ視点を防止する工夫」のような具体的な装置が現代にも要請されているのかもしれない。母語ある限り今後も絶えず漢意《カラゴヽロ》やナリスマシは生まれ続けるだろうから。 その点、クラシックギリシャにおいては、美というイメージ世界と、自然科学世界の限界点は意識されており、その論理暴走をくい止める工夫が存在していた。それが、ギリシャ悲劇と、ゼノンに代表されるパラドックスである。これらは、一芸能や一理論上のものではなく、一点の曇りなきコスモス世界という仮象世界を存続させていくための社会的維持装置であった。事世界であった先史縄文に観念発生を忌避する仕組みが存在していたこととは逆に、観念そのものであるコスモス世界はときに、ケイオス世界 - 古層ギリシャの「事」世界 - からカタルシス、浄化というかたちで、身体による観念の限界を自覚できる矯正装置を必要としていたのだ。- 初期ギリシャは、このカタルシスという智慧ゆえに、後世の西欧が陥ったようなニヒリズム世界ではなかった 。
「漢意《カラゴヽロ》・(洋意)とは、漢國(欧米)のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非《ヨサアシサ》を論ひ、物の理(リ)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍《カラブミ》(欧米)の趣なるをいふ也、さるはからぶみ(欧米語)をよみたる人のみ、然るにはあらず、書(英語)といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみ(英語)をよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國(欧米)をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年(百年)にもあまりぬれば、おのづからその意《コヽロ》世(ノ)中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろ(欧米型の発想)もたらずと思ひ、これはから意(欧米の思想)にあらず、當然理《シカアルベキコトワリ》也と思ふことも、なほ漢意(欧米的視点)をはなれがたきならひぞかし、・・・」 - 宣長 ( )内は哥座が追加
二、
一なるものと遥かなるもの
万葉歌にみる 「多麻(タマ)岐波流(キハル)」 たまきはるという永遠性と完全性に関する動的論理が、この器にはたらいている。「言挙げせぬ」こととは表裏の関係にある論理だ。
その法が、球体の変数処理された波状の口縁をもつ尖底のこのカタチとなって顕れている。この論理は、未然をイマ・ココへと繰り入れて、対象的意識を揚棄し、全体的視座をうみだそうとする独自弁証法運動であり、それは先史からいまに至るまで時空座標を忌避してきた日本語独自の球体論理ともいうべきものだ。「たまきはる命に向かう」という古言にはたらく論理と同じはたらきを得て、それまで一塊の土にすぎなかった器は、いまや、たましいの球体としての完全無欠性に向かい、一転、その果ての完全無欠さを繰り入れた華として身をひらき、時空間の欠如したイマ・ココの無窮のひろがりのなかに成って存る。この論理のもとではじめて、器は、個でありながら、その個が全体世界を湛える「一」として保障されつつ、かつ限りないその全体世界の涯へと無限に進行しながら、物=言=事として、パラドックスにみちた永遠性の動的論理を湛え、みずから具足し、静謐なひかりを放ちている。
「言挙げせぬ国」と詠んだ哥座冒頭に牽いた人麿が歌集、その反し歌は、「言霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞ真福(まさき)くありこそ」とつづくが、この前後のテクストを読み合わせてみると、そこからは、この国の言(こと)には「多麻(タマ)岐波流(キハル)」という真淵が冠辞考でいう永遠性の論理、あるいは、文字通り「タマ(玉あるいは魂)・キ(来)・ハル(張る及び春)」という魂のハルが繰り返される永劫回帰の論理がはたらき、言=事の真福(まさき)さを保障してくれている、そうした論理構造をもった古代の法のはたらきが「コト・タマ」であるという人麻呂の深い思索が読み取れる。それは(ここでは離別に際する歌としての人麻呂の置かれた状況分析には立ち入らない)中国という外国を意識した上で、一種のメタ視点のもとで自国のことを語っている。また「言挙げせぬ国で言挙げする」といった人麻呂のことば自体は、「クレタ人はみんな嘘つきだとクレタ人が言った。それは真が偽か」という論理的パラドックスにも似てはいる。が、しかしそれはパラドックスでもなんでもなく、言挙げそのものでもない。あくまで「言挙げせぬ」ということを彼独自の対語的な調べに乗せて、強調するはたらきを持たせた対語手法からでた詩語である。まして、単なる外国へ対抗する偏狭なナショナリズムからでた主義思想ではない。母語精神の自得にもとづいた冷静な思索が詩的に昇華されたことばである。
真淵の「語意考」に、 「ひとつこれの日いづる國は五十聯(いつら)のこゑのまにまに言(こと)をなして、萬(よろづ)の事を口(く)ち豆(づ)からいひ傳へるくに也、それの日放(さか)る國{*もろこしをいふ}は万づの事に繪(かた)を書てしるしとする国也、かれの日の入國{*天竺をいふ}は五重聯(いつら)許(ばかり)のこゑに繪(かた)を書て、万づの事にわたし用る國也、かかるに比國にのみ繪(かた)をもちいざる・・・。」とある。
世界の受け止め方は、「言挙げをせぬ」ことを基本規範とする国の世界と、当時の、いや、いまでもそうであるが、唐や天竺のように「言挙げする国」、つまり、主客軸の設定のもとで幻じる(かた)絵、文字という抽象表現されたものをフィルターとして世界へ対峙しようとする国とでは、その世界の見え方はまるで百八十度異なったものとなる。その差異が、この国の筆頭詩人・人麻呂にとって、常なる、あらたなる驚きとして自国言語精神への自負となり、あへて「言挙げぞ吾(あ)がする」と「言挙げをせぬ」ことによる「物」の耀き様を詠ましめたのであった。その思想は、言へと昇華され通奏低音として、彼の格調高い一連の歌の響きを支えている。
しかしながら、現在、このもっとも肝要な母語のエッセンスが見過ごされている。あるいは、忘却されてしまっている。この国は人麻呂が誇り高く詠うようにもともと「言挙げせぬ」国である。そして、その思想の源流となっている一万年以上にもわたる無文字時代言語精神のはたらきは、いまも、わたしたちの意識の底では、ほとんどかわっていないのだ。だが、古くは唐土、天竺、近代では、欧米の主客軸の設定のもとで幻じる(かた)絵、文字というものを第一義とする世界、そしてその文字にはたらく抽象論理世界の理(ことわり)にこころ奪われてしまい、肝心なじぶんの足許の言語精神のはたらきをふかく考えてみようとしない。それどころか、人麻呂の誇り、すなわち文字という繪(かた)をもたなかった背後にある抽象化を退けてきた「言挙げをせぬ」という意思を逆にコンプレックスとしてとらえてしまう。
さきほど取り上げた賢明な中村元でさえもさすが敗戦ショックシンドロームも手伝ってか『「日本人の非論理的性格は、おのずから論理的整合性のある首尾一貫した思惟作用がはたらかぬようにさせている傾向がある。すでに古代において柿本人麿は「葦原の水穂の国は神ながら言挙げせぬ国」であると詠じている。そこにおいては、普遍的な理法を、個別的な事例をまとめるものとして構成するという思惟がはたらかない。』と、「言挙げせぬ」ことを否定的文脈のなかでのみ語っている。
ところが、事実は、逆なのである。比國にのみ繪(かた)をもちいざる。- 繪(かた)とは、線、面、色、そしてそれが描写される媒体、いづれも現実を捨象・抽象してはじめて成立する一種の虚仮存在である - つまりわたくしたちは、現実を捨象・抽象せず、そこで生まれる観念的表象を一切忌避し、その能動的精神を基本心性として、て・に・を・はにみられるように、抽象的な概念知に堕ちることなく、瞬時の変化にも機敏に応じ、そのことで「もの」の耀きをあくまで具体的な物そのものとして、人工の手をいれず、動的にうけとめようとしているのである。そこにはたらく思索は欧米言語精神による普遍的な理法を構成していく思惟のはたらきとは違い、世界を積極的に共時的に拓いていくことができるとてつもない可能性を秘めている。人麻呂は、それを自覚していた。
それから壱千数百年後、自らの「位相-大地」という作品をまえにして「これは人類がまだ知らなかったチカラだ」とつぶやいた男がいる。当時の日本美術界では異端に属していたモノ派に分類される関根伸夫だ。これをわたくしはエポックメーキングな一言と受け止める。 縄文一万年の一切の抽象化を排して来た母語による言語精神の核は、縄文メディアを失って以来、言挙げせぬこととしての歌・俳諧という言語メディアにその精神が受け継がれてきた。その精神が、ポストモダンの流れのなか、いくぶん偶発的ではあったが、ふたたびモノや身体そのものをメディアとして、地上に姿を顕した瞬間のことばである。抽象化をしないで、物が事と成る世界とは、弥生絵以来抽象化の嵐のなかに育つしかなかった日本美術界においては、経験でき得なかった奇異(くすしあやし)さにあふれた躍動する世界である。
「ことたま」をことばに精霊が宿っているとするアニミズム的後世の解釈は、「物」にそって「言」に聴きいり「事」を深めていくというわたくしたちの母語精神の思索に反している。それは、欧米近代主観主義のもたらした、すべてを対象化してしまい、そこでうまれるイメージ化された表象にとどまっている一種の思考停止の産物であり、また、あるいは儒教や仏教を受容した過程がもたらしたところの現象の背後につい神仏の働きを設定してしまう習慣や習俗にそまり、物にそって思索を深めていくことをわすれた俗信のひとつである。
「言(こと)」は、舌触りのあるこゑとして、奇異(くすしあやし)さにあふれた「物」のひとつである。こゑとしてことばを口にしたとき、「言(こと)」は、「物」として「物」へとはたらきかけ「事(こと)」と成る。その「事(こと)」に触れて、宣長いう「もののあはれ」が生じ、個々の身体を媒介にしながらも、そこで産まれる全体性の視座に与することで「こと」としての思索・思考がはじめて可能となる。わたしたちはそんな「事」を受容する「器」として存在する。そして、まさにそのはたらきを自得した土くれがこの波状口縁の尖底をもった「器」である。形而上の道(タオ)という威厳にみちた抽象原理を受容する饕餮(トウテツ)文を施した装置ではなく、あくまで背後に抽象化原理を設定せず、具体的な「物」としてある「言」=「事」のはたらきのままに、そのはたらきを直く受けとめる器である。
そんな波状口縁尖底器は、ここで事を受容する「器」として、言=事の真福(まさき)コトタマ(玉)を容器へと展開するにふさわしく、やわらかな球状の口縁をもっている。そしてコトタマの器としての動的球体の姿勢をとりつつ、時空を超越するというよりも時空軸を欠如したわたくしたち独自の座標上で、無窮のひろがりを産み出しつつ、鋭く、反復という独自永遠性のなかに屹立している。その姿はまた、「ながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかける」もうひとつのコトタマの器としての、わたくしたちのイノチそのものの姿ではなかろうか。
波状口縁尖底器に顕わになっている、ながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかけるこの独自なる無限性と、ひとつの具体的個としてのイマ・ココとの関係式は、対象存在を許さないわたくしたちの不理・非象・無辺・無窮という独自座標軸にあって、はじめて担保されるものとなる。また、そこはいまも、わたくしたち母語精神が拠って立っているロジックフィールドである。このロジックフィールドのもとに、中国を経由した印度哲学も受容されてきた。そして、そこに禅にみられるように、他言語精神の哲理までをも独自の華として咲かせている。この国の禅は、古代印度の抽象論理は遠ざけて、身体を切り口にした具体的な個と無限との具体的関係に軸足が置かれてきた。それはまた、この禅の影響を受けたといわれる山水画にその特徴が顕著にあらわれている。それは抽象化した表現法をとらずに、水墨による和紙へほどこす暈し・にじみという描写を避けた手法である。「物」としての和紙へやはり「物」である墨を添わせ、描き込まず、大胆な未然を残して、そこではじめて生まれ出すこの国独自の無限感覚は、何千年も前のあの波状口縁の姿をとった尖底器の無限感覚と融通している。涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかける動的球体の波状口縁は、それが三次元から二次元へとうつされて、暈し・にじみによる山水の無限感覚となった。この無限感覚におのれを這わせていく感覚は、和歌においてみればその例はいくらでも拾える。その適例は西行であろう。
行方なく 月に心の 澄み澄みて
果てはいかにか ならむとすらむ
山家集
この歌にはたらいているものは、隠棲の情ではない。無文字時代精神をロジックフィールドとした、あの波状口縁尖底器に顕わになっているものとおなじ、ながらふる涯(カギリ)を遥(ハルカ)にかける無限感覚。そこへと一なるおのれを解き放ち同化しつつ、未然ゆえにこそイマ・ココが永遠であると動的に感じ得たところのパラドキシカルな歓喜の情である。それが、「な・ら・む・と・す・ら・む」と結んだ調べによく顕われ出でている。けっして心細さのならむとすらむではなく、躍動したよろこびのならむとすらむである。
しずかな水面へものを垂直落下させたとき、その落下点を心円とする水は、瞬間的に表面張力と重力から開放され、そこで、はからずも、みずからの究極の球体の姿を求めて撥ね踊る。その瞬間の、水のいのちの姿を留めた姿。そんな言い方もまた、許されるかもしれない。
三、
関わりと産霊(むすひ)
言挙げせぬ論理と永遠性の論理のもとに「産霊(むすひ)の論理」がはたらいてくる。それは、物の作業現場からみた場合「置く・敷く・曳く・分く・叩く・解く・曲ぐ・接ぐ・研ぐ・置く・掻く・焼く・立つ・打つ・廻す・足す・返す・合す・渡す・結ふ・積む・踏む・振る・折る・撚る・捻る・縛る・掘る・切る・割る・張る・成る・・・」という「〜ゥ」で終わる先史時代言語に根をもつ二音節基本動詞を介して、または「て・に・を・は」で関わり、結び、そして「畳語」でひびき合ふ関係を介して、者が物へ具体的な関わりかけに於いて成る「こと」の論理である。
これらをそのまま具体的な現在美術の核と成し、「まえ・うしろ、ひだり・みぎ、うえ・した、大(おお)・小(お)、おも・うら」など身体という物を軸にしつつ言を具足化していく作業となせば、そこに付帯するイメージを祓い切れたそのとき、その具体的な関りで生じた束縛が却って、物と者との和集合を生み、現存在の対象規定性を解放して今を永遠へと解き放ちて事が成る。「事」は「物」と「言」とを両輪としている。なによりもそれは、この尖底器が教える論理である。
関わって束縛することで「物」が却って解放される。活きてくるというはたらきが存在する。まあるい土俵内に限られてこそ相撲が活きるように・・・。「こと」にそなわる規範を「物」へ適用すると不自由ではなく逆に、崇高な自由感がうまれでてくる。それがここでいう「事」を生み出す創造の原理としての産霊(むすひ)の論理である。また、このはたらきは以下のように多様な展開力をもっている。そのひとつが「繰る+返す」という反復行為である。金太郎飴のように、どの時を切ろうがその切断面からは同じ規範のもとに成った同じフォルムが姿をあらわす繰り返しの論理展開。その代表例が縄文土器である。一万年を超えて、(最近の考古学の成果によれば日本列島では、周辺他国に先駆けて16000年まえから本格的な定住生活がはじまったという-小林達夫氏)だから、縄文精神の源流はもっと遡る可能性はある。とにかくほとんど気の遠くなるような昔から、姿かたちを変えずに、同じ縄文の施された土器をつくり続け、使い続けること。この繰り返しのなかに、単調さではなく、実はゆたかな経験と開放感が生み出されてくるのだ。
もうひとつのサンプルが万葉のときから詠い継がれている和歌や現代にいたる俳句の定型である。この定型を不自由と感じる歌人・俳人はほとんどいないはずだ。この縛りがあるから自由感を、そしてまれには、永遠への参入感まで得ることが可能となる。ときたま現代感覚で不定形の歌・俳句も試みられるが定型の強い規範力のまえには挫折するしかなかったし、これからもそうであろう。これらの例はまさに、「物」そして「ことば」に表現への縛りがあることでもって、却って、自由が獲得できるという母語精神のアプリオリな法のはたらきがわたくしたちの心性の基層に存在していることを証しているものだ。
一万六千年前であろうと、現代であろうと、人は自由をもとめてやまない。例えば、土器表面に、絵を描くことで自由感が達成され、それがまた神意に通じるものならば、古代人といえど、現代人とかわらないのだ。いやもっと豊かで緻密な思考をし、精確な作業もなしえていたのだから、絵を描くぐらいのことは、とっくにやってのけていたはずだ。しかし、無文字時代の言語精神は、弥生までの一万年以上にわたり世界を対象化してイメージへ持ち込もうとする誘惑を断ち切り、ここで描くという言上げにつながる抽象化-あるがままのものの輝きを消し去ってしまう主客軸の設定を自覚的に禁忌して、そこで全体的視座の生起する法に従い、描かないでいた。土偶という例外もあるが、イメージ表現された土偶の多くは破壊することを前提に制作された、否定のための存在である。
破壊に際しては祭祀的な各種意味が附与されていただろうが、ここではあへてその祭祀のあり方や意味は扱わない。なにより自分には不明である。しかして、それら個々の祭祀を生んだ背景となっているものを、描写をめぐる言語精神の型なるもの、そのものを、そこに的を絞って、カントになぞらえるならば、その言語精神の先験的形式のはたらきを、現在の母語言語精神を掘り起こしながら物にそって、動的に解明作業をしていく。すると、実証性にその本質を置く近代学問の仮説にもとづいた近似値的回答とは異なり、この能動的解明ともいうべき作業は、完全無欠な策定を可能成らしめる。なんとなれば、その作業自体が母語言語精神のはたらきによって、過去と未来とによって規定(束縛)された現存在を永遠の今へと解き放ち、未然を含めた過去と過不足なく出会わせて、あたらしい「事」という出来事を生じさせるからである。-、出会い自体が「事」と成った出来事は、もはや主観にも客観にも属さない。それは直に「事」で在るとしかいいようがない。そこがここで完全と評する意味であり、それ以上のものでも以下のものでもない。いまこの眼前にある存在物がたとえ歪んだものであろうと、そのままありのままのかたちで完全無欠に「物」として「事」として存在しているのと同様である。宣長いうように、「男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)」なのである。
かくあるごとく、主観的意味を離れ、完全なるものとしての「事」の生起を受け止めることをその思索として可能ならしめているのがわたくしたちの言語精神の最大の特徴といえるものなのである。その際、者が物へ具体的な関わりかけの局面にはたらきかけて、完全なる「事」に属する事態として、この波状口縁尖底を成り出してくるはたらきを、ここでは産霊(むすひ)の論理と呼んでいる。そしてこの論理は、有史以来の和歌・俳句における一首、一句にもはたらいている。それらを主客軸に翻意してみる現代から見ると、あいまいさがあるように見えるだろうが、実際はあいまいさなどは一切なく、その場に臨めば、完璧さを伴ったものとして、そのときそこで成立する一期一会のパーフェクトな出来「事」として成って在ることを了解できよう。それは、いまここにある存在者の現存在と同様である。他に取り替えのきかない「事」として了解可能な完璧さを伴っているのである。あるがままの「事」として成り出してくるこの国固有のものにたいしては、近代以降の欧米芸術に基準をおく見方ほど貧弱なまなざしはかってなかったのではないだろうか。そんな一例に、桑原武雄に代表される現代教養主義者が指摘する短歌・俳句のあいまいさがある、しかしこの指摘はいまいった理由により、「事」に属する産霊(むすひ)の論理の前には、全く妥当し得ない。「事」は、完璧さを伴った主客未分化の出来事として、主客軸を設定した実証的自然科学の客観性、その蓋然的な精確さに勝ったTathandlung-事行なのである。また、そこにはたらく時間性というものは、現代舞踏における、その場に時間が生まれて舞踏となっているかどうかを見分ける際の時間性でもある。さらに置かれた環境は異なってくるが、以下西田が「・・・永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。」という論理とも重なってくる。
永遠の今として、未然を含めた過去と出会うという方法はまた、物にそって母語言語精神を掘り起こすという動的な解明作業のなか「古(いにしえ)の道」を発見した宣長の方法論でもあったのではないか。よく宣長に学問としての方法論が欠如していたといわれるが、そんな批判は見当はずれである。その批判には、欧米による普遍的学問真理のまえには、西欧言語精神も他言語精神もなく、それらを統括し論じ得る唯一の観点とそこからみた方法論があるはずだという信仰が働いている。
至極単純で簡単そうにみえる母語の一語一音には、はじめから強い否定のチカラやパラドックスがはたらいているような、不可思議な両義性を感じるときがある。それは、母語の一語一音が、対立概念を揚棄し、止揚せんとするモメントを内包し、なにかの拍子にその構造を垣間見せるからだろうか。- もちろん一語一音は概念ですらなく、そこに絶対精神の観念的自己運動としての弁証法などはたらかないが、そう感じさせるようなところがある。そんな感触を織り込んだ母語は、対象化すると失せてしまうこの国独自の或る何物かなのである。こうした母語の秘密に立ち会うには、ひたすら物と言に聴き入って、事の生起とともに、それらが合い照らす瞬間(とき)の熟成を待つという姿勢が求められよう。それが言挙げせぬ国における学の基本スタンスではなかろうか。
なお、列島独自の形態であるこの波状口縁土器の類型として、口縁突起土器があるが、その突起に附された人面イメージも大方が意図的に切断されている。この否定の論理は、ちょうど俳句の切れ字のそれに対応していよう。表象化を結ぶ理(ことわり)を切ることで作業者側の視点から全体的視点へと転換し、「物」の根源的なチカラを惹きだそうとする。それは、母語による言語精神特有の先験的ともいうべき仕組みであろう。さて、いままで述べてきたことからも先史時代精神に表現描写への禁忌が強くはたらいていたことは明らかであろう。そして、ここではその古代のひとびとの描かないでいた選択が重要である。この一万年におよぶ積み重ねは、現代に、そして未来に、大きな意味をもってくるとおもわれる。
さらに言葉を継ぐと、母語に備わる規範-言挙げせぬ-という縛りのもと、こゑという身体性を有する「物」でもって、外延なる「物」とかかわり、そこで「物」へ聴き入れば、そこで生じ、発せられた「言」は、対象言語である個人的視座を止揚して、全体的視座を獲得したものとなる。視座転換が生じて、言は、真福(まさき)コトタマへと昇華するべくはたらく。それが人麻呂の反歌の、「言霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞ真福(まさき)くありこそ」の意であろうと思われる。
物にもことばにも該当する「事」にそなわる規範を受け継ぎ、それを反復する。それが、却って開放感あふれる永遠性の獲得につながるというこの事態は、説明がもどかしいが、ブランクーシの彫刻を類推していただければわかりやすいだろう。
実際、身体という「物」で「物」へとかかわりつづけ、「物」にこれらの規範・法を自覚的に反復適用し得たとき=「物」が法による構造化を果たしたとき、「物」は、対象存在である重力や延長性、そして不透過性なる物理的存在の特徴を消失し、つまり止揚されて「物質」は「物」として開放された自由の存在となる。それまでのよそよそしさはなくなり、「物」は内部の秘密を開示するに至る。そこから類推すると、縄文土器に縄の目を捻り・繰り・返し・附すという行為は、ここでいう束縛と解放の論理のもと、物の本質に聴き入る作業であったはずだ。古来の捻文(ひねりぶみ)の存在や、俗語で俳句を「ひねる」ということからも、ひねった縄の目を這わせる行為は、やはり「撚る・捻る・這わす」などに類縁をもつ「・・・る」という二音節動詞で呼ばれていただろう。
また、役割というか、その意味するところのひとつには「連歌せず歌をも詠まぬその人のさこそ寝覚めの汚なかるらめ」と俗歌にあるように、和歌の玉掃わきに当たるはたらきがあったのではなかろうか。一方、言挙げせぬという抽象を嫌うことで世界を表現未然にとどめて、物(言)にそって物(言)そのものを開いていこうと意思する縄文の縄の目の自由奔放な関わり方は、ちょうど和歌や俳諧の定型のなかで達成される開放感にみちあふれた奔放さにも似ている。モノ派の流れを汲む自身の表現を排した現代美術の作業視点から観た場合、縄文と和歌・俳諧とにはたらいている法は、ここで取り上げた母語基本法の許に成っていることを強く感じる。そこで果たされた具足世界というものは今日の論理や想像力では追いつかない、奇異(くすしあやし)さにあふれ、時空の縛りからも解き放たれて、あるがままの物等がひしめき合ひ、相い照らし合う世界であったにちがいない。
結び
母語という言語精神のそのすがたは、撚りあわせ縄文器に添わせた、あの縄の結ひ眼をもつ一連の紐のごときものである。
先史・有史一貫して変わらないその言語精神は、いまも、それ自身は不定形なものとして固定した結晶体を構成しない。そこにおいて世界を捨象せず、抽象せず、どこまでも個別の物・事に即して、不定態として自在に世界と係わり結ぼうとしてくる。そうしたことばのはたらきが縄文のこの波状口縁尖底器を、そして時をおおきく隔て、いま在るひら仮名を、あるいは具体・モノ派といわれる現代日本を代表する現在美術の動向さえつくりだしてきた。その際、これら言語精神の精華である和歌・俳諧は、漢字を借字としながらも、世界を表象し抽象化した普遍のもとに世界を秩序立てていくという漢字の発想は受け入れてこなかった。漢字とともに持ち込まれた抽象概念は、律令などの現実面では、日常の分節形態を対象として捉え、概念の定着化が成功したように見える。しかし、それは大宝律令や昭和憲法のなしくづしの解釈運用などにみられるように、便宜的観点にたった表層意識のものでしかなかった。その場その場で、単にそうしてみると都合がいいというナリスマシ機関の利点からみた運用であった。本来の、システムとして機能する概念ではなかったのだ。況や、わたくしたちの心性の核をなす和歌・俳諧において概念は本来の論理的機能を果たすことはなかった。
一方、陰陽原理や仏教理論にもとづく理(ことわり)思考というものが、いかに物・事のあるがままの輝きを奪い去ってしまうものなのか、それは、印・中・朝の事情に詳しい人麻呂がことわり志向を忌避してきた