万葉集 


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        巻 第 二
        ふたまきにあたるまき  

    
         相聞(したしみうた)


       難波(なには)の高津の宮に天(あめ)の下
       知ろしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)


       〔磐姫〕*皇后(おほきさき)の天皇を思(しぬ)ばして
       よみませる御歌四首(よつ)

君が旅行(ゆき)日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ 85

       右ノ一首ノ歌ハ、山上憶良臣ガ類聚歌林ニ載セタリ。
       古事記ニ曰ク、 輕太子、輕大郎女ニ奸(タハ)ケヌ。
     故(カレ)其ノ太子、伊豫ノ湯ニ流サル。
       此ノ時衣通王、恋慕ニ堪ヘズシテ追ヒ徃ク時ノ歌ニ曰ク、

君がゆき日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ  90 

       此ニ山多豆ト云ヘルハ、今ノ造木(ミヤツコギ)也。
       右ノ一首ノ歌ハ、
       古事記ト類聚歌林ト、説ク所同ジカラズ。歌主モ亦異レリ。
       因(カ)レ日本紀ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、難波高津宮ニ御宇
       (アメノシタシロシメ)シシ大鷦鷯(オホサザキ)天皇、
       廿二年春正月、 天皇皇后ニ語リタマヒテ曰ク、
       八田皇女ヲ納(メシイ)レテ、妃ト為サム。
       時ニ皇后聴シタマハズ。爰ニ天皇歌(ミウタ)ヨミシテ、
       以テ皇后ニ乞ハシタマフ、云々。
       三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后、紀伊国ニ遊行(イデマ)シテ、
       熊野岬ニ到リ、
       其処ノ御綱葉ヲ取リテ還リタマフ。
       是ニ天皇、皇后ノ在サヌコトヲ伺ヒテ、
       八田皇女ヲ娶リテ、宮ノ中ニ納レタマフ。時ニ皇后、
       難波ノ濟(ワタリ)ニ到リ、
       天皇ノ八田皇女ヲ合(メ)シツト聞カシタマヒテ、
       大ニコレヲ恨ミタマフ、云々。
       亦曰ク、遠ツ飛鳥宮ニ御宇シシ雄朝嬬稚子宿禰天皇、
       二十三年春三月甲午朔庚子、
       木梨輕皇子ヲ太子ト為ス。容姿佳麗(カホキラキラシ)。
       見ル者自ラ感(メ)ヅ。
       同母妹(イロモ)輕太娘皇女モ亦艶妙ナリ、云々。
       遂ニ竊ニ通(タハ)ケヌ。
       乃チ悒懐少シ息(ヤ)ム。廿四年夏六月、
       御羮(オモノ)ノ汁凝(コ)リテ以テ氷ヲ作ス。
       天皇異(アヤ)シミタマフ。其ノ所由(ユヱ)ヲ卜(ウラ)
       シメタマフニ、卜者曰(マウ)サク、
       内ノ乱有ラム、盖シ親親相姦カ、云々。
       仍チ大娘皇女ヲ伊豫ニ移ストイヘルハ、
       今案ルニ、二代二時此歌ヲ見ズ。

かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕(ま)きて死なましものを 0086 

在りつつも君をば待たむ打靡く吾(あ)が黒髪に霜の置くまでに 0087 

       或ル本(マキ)ノ歌ニ曰ク

居明かして君をば待たむぬば玉の吾(あ)が黒髪に霜は降るとも  0089 

       右ノ一首ハ、古歌集ノ中ニ出デタリ。



秋の田の穂の上(へ)に霧らふ朝霞いづへの方に我(あ)が恋やまむ 0088 



       近江の大津の宮に天の下知ろしめしし天皇の代

       天皇の鏡女王(かがみのおほきみ)に賜へる御歌(おほみうた)
       一首(ひとつ)

妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺(ね)に家居(を)らましを 0091 

       鏡女王の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首

秋山の樹(こ)の下隠(がく)り行く水の吾(あ)こそ勝(まさ)らめ思ほさむよは 0092 

       内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原の卿(まへつきみ)の、
       鏡女王を娉(つまど)ひたまふ時、
       鏡女王の内大臣に贈りたまへる歌一首

玉くしげ帰るを否み明けてゆかば君が名はあれど吾(あ)が名し惜しも 0093

       内大臣藤原の卿の、鏡女王に報贈(こたへ)たまへる歌一首

玉くしげ三室(みむろ)の山のさな葛(かづら)さ寝ずは遂に有りかてましも 0094 

       内大臣藤原の卿の釆女(うねべ)安見児(やすみこ)を
       娶(え)たる時 よみたまへる歌一首

吾(あ)はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり 0095 

       久米禅師(くめのぜむし)が石川郎女(いしかはのいらつめ)を
       娉(つまど)ふ時の歌五首(いつつ)

美薦(みこも)苅る信濃(しなぬ)の真弓吾(あ)が引かば貴人(うまひと)さびて否と言はむかも 禅師 0096 

美薦苅る信濃の真弓引かずして弦(を)著(は)くる行事(わざ)を知ると言はなくに 郎女 0097

梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも 郎女 0098 

梓弓弓弦(つらを)取り佩(は)け引く人は後の心を知る人ぞ引く 禅師 0099 

東人(あづまひと)の荷前(のさき)の箱の荷(に)の緒にも妹が心に乗りにけるかも 禅師 0100 

       大伴宿禰(おほとものすくね)の
       巨勢郎女(こせのいらつめ)を娉ふ時の歌一首

玉葛(たまかづら)実ならぬ木には千早ぶる神そ著(つ)くちふ成らぬ木ごとに 0101 

       巨勢郎女が報贈(こた)ふる歌一首

玉葛花のみ咲きて成らざるは誰(た)が恋ならも吾(あ)は恋ひ思(も)ふを 0102 

       明日香の清御原(きよみはら)の宮に
       天の下知ろしめしし天皇の代


       天皇の藤原夫人(ふじはらのきさき)に賜へる御歌(おほみうた)一首

我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 0103 

       藤原夫人の和へ奉れる歌一首

我が岡のおかみに乞ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ 0104 

      

       藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代


        大津皇子の、伊勢の神宮(かみのみや)に
       竊(しぬ)ひ下(くだ)りて 上来(のぼ)ります時に、
       大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首(ふたつ)

我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に吾(あ)が立ち濡れし 0105 

二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ 0106 

       大津皇子の、石川郎女に贈りたまへる御歌一首

足引の山のしづくに妹待つと吾(あ)が立ち濡れぬ山のしづくに 0107 

       石川郎女が和へ奉れる歌一首

吾(あ)を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを 0108 

       大津皇子、石川女郎(いしかはのいらつめ)に
       竊(しぬ)ひ婚(あ)ひたまへる時、
       津守連通(つもりのむらじとほる)が其の事を
       占(うら)ひ露はせれば、
       皇子のよみませる御歌一首

大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し 0109 

       日並皇子(ひなみのみこ)の尊(みこと)の
       石川女郎に贈り賜へる御歌一首
       女郎、字(アザナ)ヲ大名児ト曰フ

大名児を彼方(をちかた)野辺(ぬへ)に苅る草(かや)の束(つか)のあひだも吾(あれ)忘れめや 0110 

       吉野(よしぬ)の宮に幸(いでま)せる時、
       弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王に贈りたまへる御歌一首

古(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井の上より鳴き渡りゆく 0111 

       額田王の和(こた)へ奉れる歌一首

古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(あ)が恋ふるごと 0112 

       吉野より蘿(こけ)生(む)せる松が枝(え)を折取(を)りて
       遣(おく)りたまへる時、
       額田王の奉入(たてまつ)れる歌一首

み吉野の山松が枝は愛(は)しきかも君が御言を持ちて通はく 0113 

       但馬皇女(たぢまのひめみこ)の、
       高市皇子の宮に在(いま)せる時、
       穂積皇子を思(しぬ)ひてよみませる御歌一首

秋の田の穂向きの寄れる片依りに君に寄りなな言痛(こちた)かりとも 0114

       穂積皇子に勅(のりこ)ちて、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、
       但馬皇女のよみませる御歌一首

遺(おく)れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の隈廻(くまみ)に標(しめ)結へ我が兄(せ) 0115 

       但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、
       穂積皇子に竊(しぬ)び接(あ)ひたまひし事
       既形(あらは)れて後によみませる御歌一首

人言(ひとごと)を繁み言痛み生ける世に未だ渡らぬ朝川渡る 0116 

       舎人皇子(とねりのみこ)の舎人娘子(とねりのいらつめ)に
       賜へる御歌一首

大夫(ますらを)や片恋せむと嘆けども醜(しこ)の益荒雄(ますらを)なほ恋ひにけり 0117 

       舎人娘子が和へ奉れる歌一首
嘆きつつ大夫(ますらをのこ)の恋ふれこそ吾(あ)が髪結(もとゆひ)の漬(ひ)ぢて濡れけれ 0118 

      

       弓削皇子(ゆげのみこ)の紀皇女(きのひめみこ)を
       思(しぬ)ひてよみませる御歌四首(よつ)

吉野川行く瀬の早み暫(しま)しくも淀むことなく有りこせぬかも 0119 

吾妹子(わぎもこ)に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを 0120 

夕さらば潮満ち来なむ住吉(すみのえ)の浅香の浦に玉藻苅りてな 0121 

大船の泊(は)つる泊りのたゆたひに物思(も)ひ痩せぬ他人(ひと)の子故に 0122 

       三方沙弥(みかたのさみ)が、園臣生羽(そののおみいくは)の
       女(め)に娶(あ)ひて、幾だもあらねば、
       臥病(やみふ)せるときの作歌(うた)三首

束(た)けば滑(ぬ)れ束かねば長き妹が髪このごろ見ぬに掻上(かか)げつらむか 三方沙弥 0123 

人皆は今は長みと束けと言へど君が見し髪乱りたりとも 娘子 0124 

橘の蔭踏む路の八衢(やちまた)に物をそ思ふ妹に逢はずて 三方沙弥 0125 

       石川女郎が、大伴宿禰田主(おほとものすくねたぬし)
       に贈れる歌一首

遊士(みやびを)と吾(あれ)は聞けるを宿貸さず吾(あれ)を帰せりおその風流士(みやびを) 0126 

       大伴田主ハ、字仲郎(ナカチコ)ト曰リ。
       容姿佳艶、風流秀絶。見ル人聞ク者、
       歎息(ナゲ)カズトイフコト靡(ナ)シ。
       時ニ石川女郎(イラツメ)トイフモノアリ。
       自ラ雙栖ノ感ヒヲ成シ、恒ニ独守ノ難キヲ悲シム。
       意(ココロ)ハ書寄セムト欲ヘドモ、未ダ良キ信(タヨリ)ニ逢ハズ。
       爰ニ方便ヲ作シテ、賎シキ嫗ニ似セ 、
       己レ堝子(ナベ)ヲ提ゲテ、寝(ネヤ)ノ側ニ到ル。
       哽音跼足、戸ヲ叩キ諮(トブラ)ヒテ曰ク、東ノ隣ノ貧シキ女(メ)、
       火ヲ取ラムト来タルト。是ニ仲郎、暗キ裏(ウチ)ニ冒隠ノ
       形ヲ識ラズ、慮外ニ拘接(マジハリ)ノ計ニ堪ヘズ。
       念ヒニ任セテ火ヲ取リ、跡ニ就キテ帰リ去ヌ。
       明ケテ後、女郎既ニ自ラ媒チセシコトノ愧ヅベキヲ恥ヂ、
       復タ心契(チギリ)ノ果タサザルヲ恨ム。
       因テ斯ノ歌ヲ作ミ、以テ贈リテ諺戯(タハブ)レリ。

       大伴宿禰田主が報贈(こた)ふる歌一首

遊士に吾(あれ)はありけり宿貸さず帰せし吾(あれ)そ風流士にある 0127 

       石川女郎がまた大伴宿禰田主に贈れる歌一首

吾(あ)が聞きし耳によく似つ葦の末(うれ)の足痛(あなや)む我が背自愛(つとめ)給(た)ぶべし 0128 

       右、中郎ノ足ノ疾(ケ)ニ依リ、
       此ノ歌ヲ贈リテ問訊(トブラ)ヘリ。

       大津皇子の宮の侍(まかたち)石川女郎が
       大伴宿禰宿奈麻呂(すくなまろ)に贈れる歌一首

古りにし嫗(おみな)にしてやかくばかり恋に沈まむ手童(たわらは)のごと 0129 

       長皇子の皇弟(いろどのみこ)に
       与(おく)りたまへる御歌一首

丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こひた)む吾弟(あおと)いで通ひ来ね 0130 

       柿本朝臣人麿が石見国(いはみのくに)より妻(め)に別れ
       上来(まゐのぼ)る時の歌二首、また短歌(みじかうた)

石見の海(み) 角(つぬ)の浦廻(うらみ)を
浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ
よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して
渡津(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻
朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ
波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を
露霜(つゆしも)の 置きてし来れば
この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど
いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来(き)ぬ
夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しぬ)ふらむ 妹が門見む 靡けこの山 
0131 

       反し歌二首

石見のや高角(たかつぬ)山の木(こ)の間より我(あ)が振る袖を妹見つらむか 0132 

       或ル本ノ反シ歌

石見なる高角山の木の間よも吾(あ)が袖振るを妹見けむかも  0134 

小竹(ささ)が葉はみ山もさやに乱れども吾(あれ)は妹思ふ別れ来(き)ぬれば 0133 

       或ル本ノ歌一首、マタ短歌

石見の海(み) 角(つぬ)の浦みを
浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ
よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
勇魚(いさな)取り 海辺を指して
柔田津(にきたづ)の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻
明け来れば 波こそ来寄せ 夕されば 風こそ来寄せ
波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 靡き吾(あ)が寝し
敷布(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜の 置きてし来れば
この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど
いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ
はしきやし 吾(あ)が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて
嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
  0138 

       反し歌

石見の海(み)竹綱(たかつぬ)山の木の間より吾(あ)が振る袖を妹見つらむか  0139 

       右、歌体同ジト雖モ、句々相替レリ。因テ此ニ重ネ載ス。


つぬさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる
海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生ふる 荒礒にそ 玉藻は生ふる
玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思(も)へど
さ寝し夜は 幾だもあらず 延(は)ふ蔦の 別れし来れば
肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど
大舟の 渡の山の もみち葉の 散りの乱(みだ)りに
妹が袖 さやにも見えず 妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の
雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠ろひ来つつ
天伝(あまつた)ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる吾(あれ)も
敷布の 衣の袖は 通りて濡れぬ
 0135 

       反し歌二首

青駒(あをこま)が足掻(あがき)を速み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける 0136 

秋山に散らふ黄葉(もみちば)暫(しま)しくはな散り乱(みだ)りそ妹があたり見む 0137 

       柿本朝臣人麿が妻(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)が、
       人麿と相別(わか)るる歌一首

な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか吾(あ)が恋ひざらむ 0140 

挽歌(かなしみうた)


       後の崗本の宮に天の下知ろしめしし
       天皇(すめらみこと)の代(みよ)


       有間皇子の自傷(かなし)みまして
       松が枝を結びたまへる御歌二首

磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む 0141 

家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 0142 

       長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が、
       結び松を見て哀咽(かなし)みよめる歌二首

磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも 0143 

       柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、
       紀伊国ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首

後見むと君が結べる磐代の小松が末(うれ)をまた見けむかも  0146 

磐代の野中に立てる結び松心も解けず古(いにしへ)思ほゆ 0144 

       山上臣憶良が追ひて和(なぞら)ふる歌一首

鳥翔(つばさ)成す有りがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ 0145 

       近江の大津の宮に天の下知ろしめしし天皇の代


       天皇の聖躬不豫(おほみやまひ)せす時、
       大后(おほきさき)の奉れる御歌一首

天の原振り放け見れば大王(おほきみ)の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり 0147 

       一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、
       御病急(ニハカ)ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト。

       天皇の崩御(かむあがりま)せる時、
       〔倭〕大后のよみませる御歌二首

青旗の木旗(こはた)の上を通ふとは目には見ゆれど直(ただ)に逢はぬかも 0148 

人はよし思ひ止(や)むとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも 0149 

       天皇の崩(かむあがりま)せる時、
       婦人(をみな)がよめる歌一首 姓氏ハ詳ラカナラズ

うつせみし 神に勝(た)へねば 離(さか)り居て 朝嘆く君

放(はな)れ居て 吾(あ)が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて

衣ならば 脱く時もなく 吾(あ)が恋ひむ 君そ昨夜(きそ)の夜(よ) 夢(いめ)に見えつる
 0150 

       天皇の大殯(おほあらき)の時の歌四首

かからむと予(かね)て知りせば大御船泊てし泊に標(しめ)結はましを 額田王 0151 

やすみしし我ご大王の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎 舎人吉年 0152 

       大后の御歌一首

鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を
沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
若草の 夫(つま)の命(みこと)の 思ふ鳥立つ
 0153 

       石川夫人(いしかはのおほとじ)が歌一首

楽浪(ささなみ)の大山守は誰が為か山に標結ふ君も在(ま)さなくに 0154 

       山科の御陵(みささぎ)より退散(あが)れる時、
       額田王のよみたまへる歌一首

やすみしし 我ご大王の 畏きや 御陵(みはか)仕ふる
山科の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと
昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや
ももしきの 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ
 0155 

       明日香の清御原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代


       十市皇女の薨(すぎま)せる時、
       高市皇子尊のよみませる御歌三首

三諸(みもろ)の神の神杉(かむすぎ)かくのみにありとし見つつ寝(いね)ぬ夜ぞ多き 0156 

神山(かみやま)の山辺(やまへ)真麻木綿(まそゆふ)短か木綿かくのみ故に長くと思ひき 0157 

山吹の立ち茂みたる*山清水汲みに行かめど道の知らなく 0158

       天皇の崩(かむあがりま)せる時、大后のよみませる御歌一首

やすみしし 我が大王の 夕されば 見(め)したまふらし
明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を
今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見(め)したまはまし
その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しみ
明け来れば うらさび暮らし 荒布(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ひ)る時もなし
 0159 

       一書ニ曰ク、天皇ノ崩(カムアガリマ)セル時、
       太上天皇ノ御製(ミヨ)ミマセル歌(オホミウタ)二首

燃ゆる火も取りて包みて袋には入(い)ると言はずや面智男雲  0160       

北山にたなびく雲の青雲の星離(さか)り行き月も離(さか)りて  0161 

       天皇ノ崩シシ後、八年九月九日御斎会(ヲガミ)
       奉為(ツカヘマツ)レル夜、
       夢裏(イメ)ニ習(ヨ)ミ賜ヘル御歌一首

明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし
やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子
いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は
沖つ藻も 靡(なび)かふ波に 潮気のみ 香れる国に
味凝(うまごり) あやにともしき 高光る 日の御子
  0162 

藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代


       大津皇子の薨(すぎま)しし後、
       大来皇女(おほくのひめみこ)の
       伊勢の斎宮(いつきのみや)より
       上京(のぼ)りたまへる時、よみませる御歌二首

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も在(ま)さなくに 0163 

見まく欲り吾(あ)がする君も在(ま)さなくに何しか来けむ馬疲るるに 0164 

       大津皇子の屍(みかばね)を葛城(かづらき)の
       二上山(ふたがみやま)に移し葬(はふ)りまつれる時、
       大来皇女の哀傷(かなし)みてよみませる御歌二首

うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む 0165 

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手(た)折らめど見すべき君が在(ま)すと言はなくに 0166 

 

       日並皇子(ひなみのみこ)の尊(みこと)の
       殯宮(あらきのみや)の時、
       柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌(みじかうた)

天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に
八百万(やほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して
神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと)
天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を
天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と
天雲(あまくも)の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし
高光る 日の皇子は 飛鳥(あすか)の 清御(きよみ)の宮に
神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と
天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ
我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば
春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと
天の下 四方(よも)の人の 大船(おほぶね)の 思ひ頼みて
天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか
由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し
御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず
日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも
 0167 

       反し歌二首

久かたの天(あめ)見るごとく仰(あふ)ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも 0168 

あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも 0169 

       或ル本、件ノ歌ヲ以テ後ノ皇子ノ尊ノ殯宮ノ時ノ
       反歌ト為ス。

       皇子の尊の宮の舎人等が慟傷(かなし)みて
       よめる歌二十三首(はたちまりみつ)

高光る我が日の皇子の万代(よろづよ)に国知らさまし島の宮はも 0171 

島の宮勾(まがり)の池の放鳥(はなちとり)荒びな行きそ君座(ま)さずとも 0172 

       或ル本(マキ)ノ歌一首

島の宮勾の池の放鳥人目に恋ひて池に潜(かづ)かず  0170 

高光る我が日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを 0173 

外(よそ)に見し真弓の岡も君座(ま)せば常(とこ)つ御門と侍宿(とのゐ)するかも 0174 

夢(いめ)にだに見ざりしものを欝悒(おほほ)しく宮出もするかさ檜隈廻(ひのくまみ)を 0175 

天地と共に終へむと思ひつつ仕へ奉(まつ)りし心違(たが)ひぬ 0176 

朝日照る佐太(さだ)の岡辺(おかへ)に群れ居つつ吾等(あ)が泣く涙やむ時もなし 0177 

御立たしし島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる 0178 

橘の島の宮には飽かねかも佐太の岡辺に侍宿しに往く 0179 

御立たしし島をも家と栖む鳥も荒びな行きそ年替るまで 0180 

御立たしし島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも 0181 

鳥座(とくら)立て飼ひし雁の子巣立(た)ちなば真弓の岡に飛び還り来ね 0182 

我が御門千代常磐(とことは)に栄えむと思ひてありし吾(あれ)し悲しも 0183 

東(ひむかし)の滝(たぎ)の御門(みかど)に侍(さもら)へど昨日も今日も召すことも無し 0184 

水伝(つた)ふ礒の浦廻の石躑躅(いそつつじ)茂(も)く咲く道をまたも見むかも 0185 

一日(ひとひ)には千たび参りし東(ひむかし)の滝の御門を入りかてぬかも 0186 

所由(つれ)もなき佐太の岡辺に君居(ま)せば島の御階(みはし)に誰(たれ)か住まはむ 0187 

あかねさす日の入りぬれば御立たしし島に下(お)り居て嘆きつるかも 0188 

朝日照る島の御門に欝悒(おほほ)しく人音(ひとと)もせねば真心(まうら)悲しも 0189 

真木柱(まきばしら)太き心はありしかどこの吾(あ)が心鎮めかねつも 0190 

けころもを春冬(はるふゆ)かたまけて幸(いでま)しし宇陀(うだ)の大野は思ほえむかも 0191 

朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜鳴きかへらふこの年ごろを 0192 

奴(やたこ)らが夜昼と云はず行く路を吾(あれ)はことごと宮道(みやぢ)にぞする 0193 

       右、日本紀ニ曰ク、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨セリ。

       河島皇子の殯宮(あらきのみや)の時、
       柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に
       献れる歌一首、また短歌*

飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生ふる玉藻は
下(しも)つ瀬に 流れ触(ふ)らふ 玉藻なす か寄りかく寄り
靡かひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを
剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床(よとこ)も荒るらむ
そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ほして()
玉垂(たまたれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち
夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故)
 0194 

       反し歌一首

敷布(しきたへ)の袖交へし君玉垂の越智野に過ぎぬまたも逢はめやも 0195 

       右*、日本紀ニ云ク、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、
       浄大参皇子川嶋薨セリ。

       高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、
       柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の 真神の原に 久かたの 天(あま)つ御門(みかど)を
畏くも 定めたまひて 神(かむ)さぶと 磐隠(いはがく)ります
やすみしし 我が王(おほきみ)の きこしめす 背面(そとも)の国の
真木立つ 不破山越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の
行宮(かりみや)に 天降(あも)り座(いま)して 天の下 治めたまひ
食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の
御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと
奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば
大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓(つつみ)の音は
雷(いかつち)の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに
差上(ささ)げたる 幡(はた)の靡きは 冬こもり 春さり来れば
野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく
取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に
旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く
引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ
奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜(つゆしも)の 消(け)なば消ぬべく
去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ
神風に 息吹(いぶき)惑はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず
常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を
神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の
天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと
木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を
神宮(かむみや)に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も
白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
ぬば玉の 夕へになれば 大殿(おほとの)を 振り放け見つつ
鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて
春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに
憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ
神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を
常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ
しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
 0199 

       短歌二首

久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも 0200 

埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人は惑(まど)ふ 0201 

       或ル書ノ反歌一首

哭澤(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ  0202 

       右ノ一首ハ、類聚歌林ニ曰ク、檜隈女王、
       泣澤ノ神社ヲ怨メル歌ナリ。
       日本紀ニ案ルニ曰ク、
       〔持統天皇〕十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、
       後ノ皇子尊薨セリ。

       弓削皇子の薨(すぎま)せる時、
       置始東人(おきそめのあづまひと)がよめる歌一首、また短歌

やすみしし 我が王(おほきみ) 高光る 日の皇子
久かたの 天(あま)つ宮に 神ながら 神と座(いま)せば
そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと
夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも
 0204 

       反し歌一首

王(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)が下に隠りたまひぬ 0205 

       〔又短歌一首〕*

楽浪(ささなみ)の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほえたりける 0206 

       明日香皇女の城上(きのへ)の殯宮の時、
       柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌*

飛ぶ鳥の 明日香の川の
上つ瀬に 石橋(いはばし)渡し 下つ瀬に 打橋渡す
石橋に 生(お)ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生(は)ふる
打橋に 生(お)ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生(は)ゆる
なにしかも 我が王(おほきみ)の
立たせば 玉藻のごと 臥(こ)やせば 川藻のごとく
靡かひし 宜(よろ)しき君が
朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや
うつそみと 思ひし時に
春へは 花折り挿頭(かざ)し 秋立てば 黄葉(もみちば)挿頭し
敷布の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かに
望月(もちつき)の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々
出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向ふ 城上の宮を
常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ
そこをしも あやに悲しみ ぬえ鳥(とり)の 片恋しつつ
朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて
夕星(ゆふづつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば
慰むる 心もあらず そこ故に 為(せ)むすべ知らに
音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く
思(しぬ)ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに
はしきやし 我が王(おほきみ)の 形見にここを
0196 

       短歌二首

明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし 0197 

明日香川明日さへ見むと思へやも我が王の御名忘れせぬ 0198 

      

       柿本朝臣人麿が、妻(め)の死(みまか)りし後、
       泣血哀慟(かなしみ)よめる歌二首、また短歌

天(あま)飛ぶや 輕(かる)の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み
数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと
大船の 思ひ頼みて 玉蜻(かぎろひ)の 磐垣淵(いはかきふち)の
隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに
渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠(がく)るごと
沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にしと
玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて
言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば
吾(あ)が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと
我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾(あ)が立ち聞けば
玉たすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
0207 

       短歌二首

秋山の黄葉(もみち)を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも 0208 

もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ 0209 

うつせみと 思ひし時に たづさへて 吾(あ)が二人見し
走出(わしりで)の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の
春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど
頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば
蜻火(かぎろひ)の 燃ゆる荒野に 白布(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(かく)り
鳥じもの 朝発(た)ち行(いま)して 入日なす 隠りにしかば
我妹子が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに
取り与ふ 物しなければ 男(をとこ)じもの 脇ばさみ持ち
我妹子と 二人吾(あ)が寝し 枕付く 妻屋のうちに
昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし
嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
大鳥(おほとり)の 羽易(はかひ)の山に 吾(あ)が恋ふる 妹はいますと
人の言へば 岩根さくみて なづみ来(こ)し よけくもぞなき
うつせみと 思ひし妹が 玉蜻(かぎろひ)の 髣髴(ほのか)にだにも 見えぬ思へば
0210 

       短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせれど相見し妹はいや年離(さか)る 0211 

衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けるともなし 0212 

       或ル本(マキ)ノ歌ニ曰ク

うつそみと 思ひし時に 手たづさひ 吾(あ)が二人見し
出立(いでたち)の 百枝(ももえ)槻の木 こちごちに 枝させるごと
春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど
恃(たの)めりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば
かぎろひの 燃ゆる荒野に 白布の 天領巾隠り
鳥じもの 朝発ちい行きて 入日なす 隠りにしかば
我妹子が 形見に置ける 緑児(みどりこ)の 乞ひ泣くごとに
取り委(まか)す 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち
吾妹子と 二人吾(あ)が寝し 枕付く 妻屋のうちに
昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし
嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ
大鳥の 羽易(はかひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹はいますと
人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき
うつそみと 思ひし妹が 灰而座者*
 0213

       短歌

去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る  0214 

衾道を引手の山に妹を置きて山路(やまぢ)思ふに生けるともなし  0215 

家に来て妻屋を見れば玉床(たまとこ)の外(と)に向かひけり妹が木枕(こまくら) 0216 

      

       志賀津釆女(しがつのうねべ)*が死(みまか)れる時、
       柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌

秋山の したべる妹 なよ竹の 嫋(とを)依る子らは
いかさまに 思ひ居(ま)せか 栲縄(たくなは)の 長き命を
露こそは 朝(あした)に置きて 夕へは 消(け)ぬといへ
霧こそは 夕へに立ちて 朝(あした)は 失すといへ
梓弓 音聞く吾(あれ)も 髣髴(おほ)に見し こと悔しきを
敷布(しきたへ)の 手(た)枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ
若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ
悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが
朝露のごと 夕霧のごと
0217 

       短歌二首

楽浪(ささなみ)の志賀津の子らが罷(まか)りにし川瀬の道を見れば寂(さぶ)しも 0218 

左々数(ささなみ)の*大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき 0219 

       讃岐国(さぬきのくに)狭岑島(さみねのしま)にて
       石中(いそへ)の死人(しにひと)を視て、
       柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌

玉藻よし 讃岐の国は
国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴き
天地 日月とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と
云ひ継げる 那珂(なか)の港ゆ 船浮けて 吾(あ)が榜ぎ来れば
時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち
辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏み
行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど
名ぐはし 狭岑の島の 荒磯廻(ありそみ)に 廬りて見れば
波の音(と)の 繁き浜辺(はまへ)を 敷布の 枕になして
荒床(あらとこ)に 転(ころ)臥す君が 家知らば 行きても告げむ
妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず
欝悒(おほほ)しく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは
0220 

       反し歌二首

妻もあらば摘みて食(た)げまし狭岑山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや 0221 

沖つ波来寄る荒礒を敷布の枕とまきて寝(な)せる君かも 0222 

       柿本朝臣人麿が石見国に在りて死(みまか)らむとする時、
       自傷(かなし)みよめる歌一首

鴨山の磐根し枕(ま)ける吾(あれ)をかも知らにと妹が待ちつつあらむ 0223 

       柿本朝臣人麿が死(みまか)れる時、
       妻(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)がよめる歌二首

今日今日と吾(あ)が待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも 0224 

直(ただ)に逢はば逢ひもかねてむ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ 0225 

       丹比真人(たぢひのまひと)が柿本朝臣人麿が
       意(こころ)に擬(なそら)へて報(こた)ふる歌

荒波に寄せ来る玉を枕に置き吾(あれ)ここにありと誰か告げけむ 0226 

或る本(まき)の歌に曰く

天ざかる夷(ひな)の荒野(あらぬ)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし 0227 

寧樂(なら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代


       和銅元年(はじめのとし)歳次戊申(つちのえさる)*、
       但馬皇女の薨(すぎたま)へる後、
       穂積皇子の冬日雪落(ゆきのふるひ)御墓を遥望(みさ)けて、
       悲傷流涕(かなしみ)よみませる御歌一首*

降る雪は深(あは)にな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の塞(せき)為さまくに 0203 

       四年(よとせといふとし)歳次辛亥(かのとのゐ)、
       河邊宮人(かはべのみやひと)が姫島の
       松原にて嬢子(をとめ)の屍(しにかばね)を見て
       悲嘆(かなし)みよめる歌二首

妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末(うれ)に蘿生すまでに 0228 

難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも 0229 

       霊亀(りやうき)元年歳次乙卯(きのとのう)
       秋九月(ながつき)、
志貴親王(しきのみこ)の
       薨(すぎま)せる時、よめる歌一首〔また短歌〕*

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手(だ)挟み
立ち向ふ 高圓山(たかまとやま)に 春野焼く 野火(ぬひ)と見るまで
燃ゆる火を いかにと問へば 玉ほこの 道来る人の
泣く涙 霈霖(ひさめ)に降れば 白布の 衣ひづちて
立ち留まり 吾(あれ)に語らく 何しかも もとな言へる
聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き
天皇(すめろき)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光そ ここだ照りたる
0230 

       志貴親王の薨(すぎま)せる後、
       悲傷(かなし)みよめる〔短〕歌二首*

高圓の野辺(ぬへ)の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 0231 

御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに 0232 

       右ノ歌ハ、笠朝臣金村ノ歌集ニ出デタリ。或ル本ノ歌ニ曰ク

高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ  0233 

御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに  0234 


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更新日:平成15-10-17
最終更新日:平成20-01-21
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