浮世根問 

    

    小咄集
 
        


   ・笑いのとれない浮世根問
     「絶対矛盾的自己同一」    
   ・幻の哲学雑誌「ナチス文庫」と帝國海軍

   ・不完全性原理
   ・現代錬金術師の抱く妄想「大統一理論

 

 



    ナチス文庫 



  小咄A 

笑いのとれない浮世根問
   「絶対矛盾的自己同一」
  
   

  日本の「哲学」とは、果たして「φιλοσοφια」「philosophy」と同じ類のものであろうか・・・?
しかし、ざっと、古今の芸術分野をみわたしても、唐宋の山水画の観念的描写と手法を真似ておおかたの日本的山水画があり(山水を越えた山水として長谷川等伯の松林図屏風は例外)また、李白・杜甫を真似て一時平安時代に本場とはかけはなれた漢詩が流行ったように、さらに西欧絵画とその技法を真似て明治以降の日本的西欧近代画が発生したように、そのほとんどの用語やツール、作品にながれている考え方や方法論、その基盤にある視点というものはいまもって、海外文化テンプレートのフルセットの移植である。この傾向は哲学において、さらにはなはだしいものとなっている。自国のことばに深く根ざし、思考を積み上げてきた西欧の芸術・哲学とは決定的になにかが違っていよう。

 明治政府主導で西周が造語した芸術・哲学では、欧米文化の紹介所としての機能が一巡したあと、日本化というプロセス(-この場合の日本化とは、八紘一宇のような政治的プロパガンダの延長線上で、国際情勢に対応するための急場しのぎの日本化であった。平安・室町のような文化としての和様化ではない)で特異な現象がみられる。観念の空洞現象だ。一例として、京都学派で日本の代表的哲学者といわれ尊敬されている西田幾太郎を畏れ多くも取り上げてみる。彼の「善の研究」等の一連の作品は、日本独自の哲学といわれて久しい。が、果たして、これは「philosophy」なのだろうか。また、これらの作品の「純粋経験」、また後の「絶対矛盾の自己同一」という用語には、哲学を真理追求の学問と前提した場合、真理を追求するに足る日本語本来のことばのチカラはあるのだろうか。内容の良し悪しの問題ではない。使用されていることばの底に働くチカラと、ことわりが、日本語としてことば本来のチカラをもっているかの問題である。

  たしかに抽象概念を駆使した哲学用語は日本の固有語での表現が困難だ。しかし、漢字や造語を多用せざるを得かったとはいへ、芸術・哲学は真実を愛する学と標榜しているのである。それが母語の構造の自覚にまで至らず、肝心の真実を追い求める固有の視座をなくしてしまったのでは全く意味をなさない。そこには、かっての和様化の時代に働いたような自分たちの視座を失わない工夫・装置が必要であったはずだ。さもなくば、括弧つきの西欧学問紹介くらいに止めておくか、日本哲学不可能論で十分であったはずだ。

 偏向したものいいになってしまうが、欧米のphilosophyと比較して、「絶対矛盾の自己同一」など、ジブンにはpilosophy用語ではなく、ご利益のあまりみこめない一種の翻訳題目にしかみえてこない。「絶対」とはなにか「矛盾」とはなにか「自己同一」とはなにか。そしてそこに働く論理はほんとうに独自のものなのであるのか。それらの検証のまえに、これらは、すくなくともやまとコトバではなく、老荘の発想したあるいは、印度に由来する禅仏教の観念用語、それらの組み合わせ造語による論である。当時の一流の知識人がそのことを意識できてないはずもないとおもうのだが、これは印中の思想を後鏡にして、前に欧米の鏡があり、その間へ座り込んでみえた無限虚像を絶対自画像とみたてた新公案の類ではないだろうか。

  しかし、哲学ばかりではなく、各分野の日本化プロセス
で、この合わせ鏡のなかにおける、さまざまな虚像が生み出されていった。やがて進歩的知識人といわれる方々も、また、これらの日本化といわれる現象をさらに、また、欧米文化の鏡に映りこんだ虚像を基に批判することになった。こうした混乱は現在も進行中である。その典型が京都リベラル派の墓標となった「俳句第二芸術論」である。湖面に写った逆さ富士を欧米の美学尺度で計測して、本体の富士山の美をあれこれと詮議する。おもしろい論だが、本人は大真面目なのである。対して虚子の意に介さない反応はたいそう大人びていた。

 そもそも智慧を愛し、真理を追究する「philosophy」は、オリジナルのギリシャにしろ後の西欧にしろ、その民族言語への深い愛にもとづいている。真理を解析表明していく最強ツールとしての自国言語への自負はほとんど信仰に等しいものだ。いやそれ以上のレベルだ。「はじめにロゴスありにけり」「ことばは翼をもっている」そんなことを感じながら、自国のことばでもって哲学を積み重ねてきたのが西欧哲学の歴史である 。老荘の道家思想本家の中国にしてもそうだ。漢字という具象化された絶対的よりしろ文化への中国人の深い愛と自負にもとづいているからこそ唐・宋の山水画や書画など世界に通用する優れた思想や芸術がうみだされてきた。
ここで、もういちど「絶対矛盾的自己同一」と唱えてみる。なんとなく調子がいいことばだ。純粋無垢な自己に帰って、宇宙を無反省に手に入れたような気にさせられてしまう。ありがたい。座りなおして、お茶でもたてたくなる。

 しかし、なぜ、ジブンたちの根にあることばを重要視ぜずに、あたらしい欧米の観念語や抽象論理、あるいは、古い印中の仏教語を操作して、ジブンタチの根のところにある深い真実まであきらかにできるという自惚れ、あるいは錯覚に陥ってしまうのだろうか。これは江戸時代でも同様な例にはことかかないようだ。また、何を隠そう、かくいうジブンもいままでも欧米哲学を引用、援用して納得してきたし、それがあたりまえの習慣にもなっていた。ジブンの敬愛するリーウファン氏の「出会いを求めて」や、臨床心理学者の木村敏氏の論文。大峯あきら氏の「花月のコスモロジー」も例外ではない。それぞれがすぐれた思索であってもその柱にハイデッガーの思想、概念を多用した論文となっている。このほか時代時代のジブンたちの状況に適合した欧米思潮を鏡にしてきた例は、いくらでもある。そうでない例を探すほうが困難である。かくしてみると、外来文化を移入する前のここでいう受容言語としての第二言語ではなく、移入前のわたくしたちの心性の根にこそ、第一言語としての「ふること」にこそ、これらの根本原因を求めなくてはならないのかも知れない。
ここで、先へいそぐ。

幻の哲学雑誌
  「ナチス文庫」と 帝國海軍

 ふだんのことばへの深い愛が欠如し、古言(ふること)に働く理の智慧もなく、存在全般の真理の追求を標榜する「日本哲学」は、純粋な智を求めるといったものではなく、成立当初から、英米列強に対抗しようとする権力的な動機にもとづいて勘案された権力主導の急造学問であった。そもそも欧米学問紹介所くらいににとどめておくべきところを、自国のことばへの省察を省略し、せいぜい印度中国思想にこころをすりかえて西欧もどきのことをはじめたのだった。こうした結果は見えている。哲学や芸術概念は、日本化のプロセスで移入観念の空洞化を来たした。西周が哲学・芸術用語設定時に仕掛けたこれらの観念は、明治・大正・昭和と進むにしたがって、空洞化が巨大妄想化し、最後には、京都学派を筆頭に、当時の代表的哲学者たちの多くが無反省にナチズム思想と連合し、「大東亜共栄圏思想」を正当化するに到った。

  その象徴が時局の迫ったころの日本語哲学雑誌「ナチス文庫」であろう。最近まで眼にしていた、哲学思想雑誌の「思想」「世界」「理想」の時局版である。とある研究室の奥深くで時々手にしたそのA六版の表紙多色刷りの小ぶりの叢書は、ひたすら「ナチス思想」と「日本哲学思想」が唯一「古代ギリシャ思想」を正当に継承できるという選民的思想を捏造した観点から編修されていた。「ナチス文庫」に、論陣を張った当時の第一線級の哲学者たちの名を認めたとき、そしてまたその内容にはずいぶんと驚かされた。それにもかかわらず、その後この哲学叢書への話題はきいたことがない、官立巨大図書館を捜してもみつからない。(京都学派へは帝國海軍の情報機関の関与と資金提供があったらしいが、ただ、この「ナチス文庫」にも関与があったかどうかは分からない。)
 かくして思想界の戦艦大和は轟沈した。ただ、結果論で批判するのはたやすいので個人の問題はさておく。しかし、「ナチス文庫」は、権力主導のとってつけた学問概念は、観念空洞化をかかえたまま、いつか妄想化、暴走化をきたし、果にはじけるというわかりやすい例である。それは他事ではない。現在でいえば、「環境」とか「自然」という概念もあやしい。説得力がありそうでいて実はつかい方次第で、いつでも権力化してしまう可能性をもったコトバである。そもそも、「ナチス文庫」を生み出すもととなった大学というシステム自体は、官立、私立問わず、いまもってなお、明治当初の富国強兵路線の要請のまま成立したままであり、その権力的基盤と体質、欧米学問物真似のコンセプトは、すこしも変ってはいない。しかも「ナチス文庫」のように都合の悪い結果は隠蔽してしまい、古くは中国・印度、そして近代西欧、現代まで外国思想の視座に仮託してきた
学問というシステムへの明確な自己批判も独自言語文化からのあたらしい視座を生み出すこともできず、旧態依然たる官僚主義的体質を無反省に継承し続けている。いまでこそ旧来の権力的強制からは自由になったと標榜はしている - しかし、この時代にそんな表明は誰だっていえる意味のないことだ。一方、わたくしたちの暮らしからでた気持ち、考え方などからまったく遊離してしまった無数の観念的、かつ旧来と違った意味での権力的概念を戦前同様に、いや当時にまさって無数に排出しつづけている。ふだんのくらしのなかのこころもちから離れてしまったことばや概念というものの行く末の危うさには無自覚のままに・・・。きわめつきは従来の学問のジャンルを横断的に統合した視座をうりものにしている政治経済戦略学とか、総合政策学の最近の動きであろう。世界の、日本の自由な啓蒙家を気取る一方、自己陶酔的に、あいもかわらず、母国語にはたらく根本的な法の自覚にはいたらず、無反省、無責任なデキアイ概念を世間へ排出しつづけている。こうしたなりすましの視座をもったクレオールなひとびとは、産学協同の日本的プラグマティズム思想の信徒として、あらたなる日本の権力中枢の宦官となり、世間を脅迫しつつ、目先の功利主義思想を喧伝していくだろう。結果、彼らには、ジブンタチの陶酔した思い込みと反対のみじめな結末が待ち受けていよう。母国語にはたらく根本的な法の自覚にいたらなければ、権力からは独立しているといいながら、他文化圏思想の眼差しに仮託するしかないのだ。そうすれば、いまでいう、国際金融資本にみられるような巧みな罠には、たやすくはまってしまうことになる。その自己陶酔型の甘い姿勢に、わたくしには「ナチス文庫」が重なって見える。そしてまた時代がかわり都合がわるくなると、隠蔽にかかるだろう。こうした精神は、戦前となんら変わってはいないはづだ。極論すれば、彼らがなになに戦略学部とか、総合政策学部とかの名前でこれから生み出そうとしている学問システム自体、ジブンのことばの視座を欠いた故に暴走化してしまったもうひとつの未来の「ナチス文庫」なのである。
無限定のチカラにあふれた森羅万象世界と比べれば、学問といわれているもの全般に、本来のことばのチカラがはたらいて無い。まづ、そこのところから考えるのが学問の務めである。その省察なしに、概念の暴走化は避けられまい。いまは、急造「学問のすゝめ 」の時代ではない。まづ、ジブンたちの本来のことばに聴き入り、そこに働く法と、チカラの自覚が要請されている「学問のツトメ」の時代である。閑話休題。

 ところで、オリジナルの芸術、哲学作品というものはオリジナルの言語論理のはたらくプラットフォームのなかでこそ意味性が生まれて、普遍性がでてくるものだ。そこでたちあげられた真理を追究する学問のみが世界へ通用する。しかし、いまなお、戦前の日本哲学・芸術の根本問題を無反省にしたまま、現代西欧哲学用語、論理を真似て、存在もしない哲学・芸術の世界基準があるかのごとく、そこに依拠した引用や論理をそのまま拝借した現代日本哲学の輩は跋扈し続けている。オリジナル芸術、オリジナル思想や独自の哲学は、自国のことばのチカラ、そこにはたらく独自の論理構造を離れて、存在することはできない。そのことはどんな言語圏でも通用する真理であるはづだ。しかし、どっちみち、権力主導で哲学用語なるものをでっち上げようと、翻訳輸入しようと、日本語で論理づけ組み立てていく際には、日本独特の「無化力」(禅の無とか老荘の空ではないウツ(空)という無化)が働き、概念を空洞化させてしまうだろう。放置していればいいだけの話でもあるが・・・。(このへんは、あらためて主題として歌座本編であつかう)戦前の例をもちだすまでもなく日本語としての独自の「ウツ」や「ウツツ」という無化と顕現の構造、その働きを自覚しないことには、高度情報化時代であろうと、ふたたび印度・中国・欧米の論理構造を後鏡にして近未来の情報世界という前鏡を覗き込み、また、戦前同様の観念空洞化を生じて、あらぬ結果を招くことになるだろう。


歩きだすか、座り直すか。

ことばのチカラを愛し、その本質を自覚して、野に歩み出た西行の歌、そして、参禅して切れ字をみがき、そこで座り直さず、陸奥へと旅立った芭蕉。彼らには、明治以降の芸術・ソフィスト哲学が束になってかかっても、思想的に永遠に敵わないのである。


 

 小咄,.B

 ○ 第1不完全性原理
 「ある矛盾の無い理論体系の中に、
  肯定も否定もできな
  い証明不可能な命題が、
  必ず存在する」

 

 

○ 第2不完全性原理
  「ある理論体系に
  矛盾が無いとしても、
  その理論体系は自分自身に矛盾が
  無いことを、その理論体系の中で
  証明できない」
        1931 ゲーデル




  小咄C      

○ 大統一理論

相対性理論と量子論を、一つの理論のもとに統一できれば、全自然界を解明できるとする「大統一理論」とは、現代の錬金術師たる理論物理学者たちが抱く妄想にすぎない。自然科学の扱う限定され、抽象観念の反映にすぎない対象自然と、一方、渾然一体たる全体世界の存在は、実は、全く異なった位相のものである。「大統一理論」は、その事態を知らない、あるいは対象自然と分析しつくせない全体自然の相違を
無視したところから始まった自然科学が、いつか陥る必然的で初歩的な論理矛盾の落とし穴から見あげた一抹の夢である。
詳細は日本絵巻第二部「ツキノヒカリ」で論ずる。

 

 整理中 20094.20


   ツキマテバ(月待者

      
「ツキマテバ」は、
わたくしたちの内なる二種類のことば、
第一言語としての古言(ふること)。
もうひとつ、擬態する言語としての
ナリスマシの視座がもたらす第二言語。
(それは、外の文化を受容した結果の宣長
いうところの漢意にもとづく 言語である)
これら両言語間の拮抗を主題としている。

そこで
は、
白村江の戦い以降の日本という存在を
出来事の総体として扱っている。
そして、これらに纏わることばを、
意味未然の「コト」の集積そのままに
「ことの端」(文字)自体の舞踏とした。

   
WWWの水際に 
ツキマテバ
あたらしいジブンと、
具足したニホンが、
懐かしく再会を果たす。
そんなことが起こり得るやも・・・。
  

 

 

 

 

 

          

 

 



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座 美学研究所
  2009年4月21日
    長谷川 有  
 E-mail :
YU HASEGAWA


          
                  
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