Aesthetics
美学あるいは反美学
「非象-見るから見ゆへ」 有
天上山火口原にて(90m×0.9m)
白ゆふ(木綿布)と自然石
- 写真記録は上野都美術館
美の仕組みについて
もくじ
特集 - 言挙げせぬ国のフィジカ
序 論 - 解明にあたって
本論一 - 描写と沈黙
本論二 - 一なるもの遥かなるもの
本論三 - 関わりと産霊(むすひ)
結 び - ことばの姿
漢 意 - ナリスマシとは
賀茂馬渕・本居宣長 - 「たまくしげ他」
西田哲学 -絶対矛盾的自己同一
茶の本 - 岡倉天心
古語復活論+日本美+他 - 折口信夫
古代国語の音韻に就いて 橋本進吉
万葉秀歌 - 斎藤茂吉
DANCE パッケージ - 哥座星座
哥 座( うたくら)について
言挙げせぬ国のフィジカ
たまきはる命としての
波状口縁尖底器
撮影( 6×4.5) 有
左原稿は大幅改訂作業中 2013年12月 - 2015年春完了予定。
形而上者謂之道
形而下者謂之器
- 易経・繋辞上伝
一方、東シナ海をはさんだ国、中国の器は、波状口縁尖底器からみると、そこから四、五千年ほど時代が下るが、「物」を物質として対象化し、その成分を抽出するという抽象化作業において、はじめて抽出されるところの青銅を獲得。他方、思想においてもB.C.1700年頃の中国では、右にかかげた易経・繋辞上伝第十二章にみられるごとく、「形而上者謂之道 形而下者謂之器(形而上者とは、これを道と謂い、形而下者とは、これを器と謂う)」とする陰陽原理にもとづいた世界の高度な抽象理論の体系化が進行した。この抽象的線刻に適したメタルの獲得と、抽象思考を両輪として、表現は極度にソフィストケイトされてくる。
(繋辞上伝が易経に追加されたのは孔子の時代だが、その思想の基礎はすでに殷周時代にあったといわれている)そこで、「器」の存在根拠は、抽象概念であるところの「道(タオ)」とされ、その理論の深化とパラレルなかたちで、殷周の青銅器の文様の抽象化はすさまじく発展し、天の威光を受容する聖なる祭器として、鬼気迫る恐るべきものにまで深化していく。雷紋や過紋の幾何学文様、獣面文または饕餮(トウテツ)文のような抽象文様は、陰陽宇宙の絶対性の高みにまで表現されて、そこに立ち会う者を威嚇し、圧倒し尽くす。
*易経・繋辞上伝における器の概念は、広義では、天からの陰陽の働きかけを受けるすべてのかたち在るものを指す。すなわち、形而下としての物である。あらゆる存在の根源である形のない形而上としての道(タオ)に対して、具体的な象をもつあらゆる存在物を意味した。狭義の祭器としての器のみならず、人間も含め、地上に存在する現象面において把捉し得られるすべての形象が器であった。
*漢字の原義における器という文字は、犬牲を用いて清めた祭器を形象したものだ。四つの口のあいだにはさまれた大の字は、本来の意は犬牲にあるので、犬が正しい。- 「字統」白川静より抜粋。かように器は天からの陰陽の働きかけを受け、まつりごとを行う、このうえなく神聖なものであった。それゆえ器を制する者は、その象を尚(たっと)ぶ聖人であるとされた。
序論
器の解明にあたり
易経や漢字における器に聖性をみる基本的な位置づけは、暮らしのなかに位置づけられた性格がつよい日本の器にあっても、器というものの古代における重要性を考慮してみると、これらはたんなる道具存在にとどまらす、聖なる性格を帯びていただろうことは、想像に難くない。早期の波状口縁や中期の火炎式土器などの形態をみれば、それらは道具存在としての機能を逸脱しており、なんらかの精神的な意味を担っていたであろうことは明らかだ。それゆえ、この尖底器にはたらく思想を読み取る試みは、即ち、当該精神文化の凝縮した桂離宮やパルテノン神殿の設計思想にあたり、多角的視点から当時の言語精神の深層構造を解明しようとする作業とまったく同じことであり、そこからこの列島の言語精神のはたらきを十全に汲み取ることが可能となろう。
ただし、この解明は内にあっては古史古伝など頼るべき文字資料がない時代であり、また第二次資料として援用可能な漢書による記述もおよばないB.C一世紀以前の弥生からそれ以前の新石器時代が対象となる。そこに古典学や言語学、民俗学、歴史学等々の従来社会科学系人文学の限界が生じてくる。唯一、科学的実証性によって研究可能な自然科学系と人文科学系の中間に位置する考古学に期待がかかるところだ。しかし、自然科学的方法で年代を決め、それを基に層位学と型式学を組合せ相対年代を求め、出土した遺物をデータとして再構成し、そこにあった人々の生活・文化・社会のありさまをある程度シュミレーションして見ていくことを可能とするこの手法は、そこで見えた姿がパラメーターの設定次第で結果は大きく変動してしまうことを考えあわせたとき、その限界を超えて当時のひとびとの活きた心性の核にまで踏み込み、先史思想が現代とどう関連するのかなど核心となるべき問題に応えていくには、どれほどデータがそろった時代にあっても常に蓋然的な解答に留まるほかなく、不足を想像で補うしかないであろうかと思われる。先史とはいえ、すぐそこにあるひとびとの暮らしや考え方なのであるが、前文字文化と文字文化以降の社会との間にはこのような学問解明上の不連続線が横たわっている。
平成も二十年のころ、霞ヶ浦の地政学的な要となっているポイントを訪れた時のことである。そのあたりは古墳がやたら多いのだが、そんな丘のひとつに立ったとき、縄文中期から晩期にかけての土器破片が無数に散らばったねぎ畑でひとり黙々と畑仕事をするおばあさんの姿にであった。きっと、このあいだまで、田舎のいたるところのくらしのなかにこのような土器破片がまぎれこんだ光景があったであろう。わたくしたちの心性や社会のありかたを考えるとき、こうした欠片をいまに遺す縄文を無視することはできない。そこはヒトのいなかったはるかな恐竜時代ではない。文字の使用の有無という壁があるにしても、一音節身体語や二音節動詞、畳語、てにをはなど現在とほとんどかわらぬ言語をつかうひとびとが暮していたはずのお隣の時代である。
この学問解明上の不連続線を越えて、母語による独自言語精神のはたらきが文字使用の前と後でどう変化したのか、また両者の言語精神に共通のものがあるとすれば、そこにはたらいた法とは何かが探求される必要がある。列島全域にこれだけなまなましい痕跡を無数にのこしている縄文文化である。この無文字時代の視点を解明し、先史とよばれる時代精神から現代の意味を求めなくては、文字資料だけで得られる古代精神の分析から古代や現代をながめても片手落ちの観は否めない。
そのへんは各研究機関でも意識されていて、比較人類学、比較民族学、言語学等の学際的な相互研究でそこを乗り越えようという動きはでている。しかし、実際上は、理念とは裏腹に、それぞれの学問の拠るべき立場が明確になってくると、その間のギャップはひろがるばかりとなる。用語ひとつ例にとっても、学際間で共通に定まったものがないのが現状であろう。この不連続線を、従来学問の方法や、欧米に真似てはじまった学際的な試みなどで乗り越えうるとの熱意は、欧米に由来するそれら学問の基盤そのものが問われないかぎり、現代神話のひとつくらいは創れても、結局無駄な努力に終わる可能性が高い。
解明の方法
左原稿は大幅改訂作業中 2013年12月 - 2015年春完了予定。
左原稿は大幅改訂作業中 2013年12月 - 2015年春完了予定。
「最後の審判 修復作業風景」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 Leonardo da Vinci
現実の抽象空間である一点透視画法の代表例。 撮影 有
「哥座(うたくら)」は、いったん文化装置の全てに強制終了をかけ、次に、無文字文化の視点を再起動!。その地平から、日本美の謎の構造解明に挑む。
ここで開かれた美の原風景の地平からの展望は、日本芸術史上至高の傑作、光琳の「燕子花図屏風」と「紅白梅図屏風」に宿るあの不気味さの正体を、そして等伯の「松林図屏風」を、さらに光琳とほとんど同時代を駆け抜けた芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句、その字余り「で」というたった一字の切れ字がわたしたちの未来へ残したところの重大なメッセージを解明してくれるはづだ。 。