古今和歌集仮名序 伝紀貫之筆
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ウタクラ 目録
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言挙げせぬ国の
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手爾葉シリーズ 「無辺」
A ・S ・O 哥座
ふだんその差は見えにくく、また格別に意識はしていないけれど、これほどまでに翻訳が一般化し、またIT化で国際間の緻密なコミュニケーションが常時はかられるようになった現代にあって、こんな国際化時代だからこそなのか「私たちのものの受け止め方やものの表現の仕方は印欧中に代表される大陸のそれとはどうも根本的に違っているのではないか。」最近、こうした国際化とは逆行した喰い違いの感覚やそれに伴う素朴な疑問の声を聞く機会が多くなってきた。それは芸術作品の制作だけでなく、とくに国際間で物をつくり提示していく必要からものを突き詰めて製作していく産業方面での「ものづくり」の現場からもこの種の違和感の声が上がるようになってきている。一般的に、ものの受容と表現にまつわる感覚や考え方の相違は民族の歴史や地域、気候風土そして、そこから来る生活習慣や生産手段などの環境の差から来ているのであって、それは世界の生活のレベルが縮小していくに連れ、いづれその差も解消していくと思われてきた。また、主語が省略されている日本語は、言語構成法も大陸言語とは逆であるが、これら文法上の違いによる差異感も、AIや翻訳技術の向上により近い将来霧散解消するだろうとまで云われてきた。さらにそもそも文字も持たず、みずから抽象概念を生み出さすことのなかった日本語は、高度文明から切り離された未発達の言語である。故に・・・。と事大主義的な言語進化の観点から劣等言語として世界の受容と表現の差異感が説明されてもきた。
これらの一般説は、言語の役割や目的は、地域がちがってもそれは歴史段階の相違に還元できる差であり、あるいは文化的な属性の違いであり、どの言語も本質的には終局同じ目的をもつものであり、生活や生産手段に欠かせないコミュニケーションツールであるとする。つまり言語を対象化して歴史発展段階で観ていこうとする近代言語史観というべきものからきた説である。
しかし哥座バーションXの本論で明らかにするように、この喰い違い感の原因をあきらかにしていくにはたんに唯物史観的環境変化指標を見るだけでではなく、両者の言語と物理が基づいている言語プラットフォームにまで下る必要があるのだ。その底を整理検証していくと、両者言語が基づいている位相空間はまるで正反対のしかも表裏の関係になっていることがわかってきた。いまではその証明につながる例もつぎつぎと発掘されてきている。両者言語空間間に存在する純粋に構造的なこの違いは、両者間には翻訳などでは架け渡すことのできない底知れずの深淵が存在し、この相違はとても環境論や文法論から説明し切れるものではないこともわかってきたのである。
哥座は、「ものの見方の差異というものは、各言語が拠って立つプラットフォームの差異へと還元できる。」という命題をいったん作業仮説として立てて、列島言語の「言」においては、万葉から八代集、源氏そして連歌・俳諧までを、またそれらについてのいまに伝わる秘伝抄の成果をも合わせて継承させていただき、列島言語が拠って立ってきた独自のプラットフォームの構造確定作業をすすめていた。その上で大陸系の言語プラットフォームの構造と比較検討してみた。同時に「物」においては、先史縄文から現代美術作品までの流れを個々別々に、具体的にみて「物」が生成される際のこの列島と大陸の時空間における座標系の違いや、さらに表現の際の両者が根ざしているプラットフォームからくる論理の違いを検証し、その差異を歴史的によく知られた、主に芸術作品などの具体例と照合する作業を行ってきた。ことに「物」においてはみづから右イメージの「手爾葉シリーズ」にみられる客体と主体との係わり合いに的を絞った「物」と「身体」とによる思考実験から実作レベルまでそのときその場と対話しながらの各種作業を実践してきた。その地は足もとのこの列島はもとより英国ヨークシャーそしてイタリアナポリ、シチリアのエトナまたエーゲ海上に浮かぶナクサス、サントリー二、また中近東の砂漠でアメリカ大陸ナバホ居留区、そのほかマレーや中国東北部、朝鮮半島にまで及ぶ。N.Yの国際貿易センタービルでの作業はあの9.11の十一年前のことになる。その際「身」と「物」とが一体化するプロセスから「こゑにならない声」を拾い出し、そのはたらき方を唯一の手掛かりに「古言」や「各種論考」そして「縄文」、「現代美術」までの検証にあたってきたのが現在の「哥座」である。
そこで発見できたもの。それはあまりに多いが、一言でまとめるならば「列島言語精神には「言」と「物」とに一貫してはたらく否定の形相を備えた特異な地軸が存在し、そのうえに「物と言」が展開して来る」という事実である。この座標上では
- それはもう座標とは呼べないものであるが - この地軸上では、捨象や抽象を忌避して具体的なものを求めていく力学 *一)がはたらいている。その場において観察者の視点はその底から掬い取られ、それまでの各事象との関係性と共に裏返しにされてしまう。「物」がこの主客観の分別未然ともいうべき世界へと還元されたとき、その場を共有する「もの」「ひと」は世界のどこであろうと浄化感を覚えながら「物」が「物」へ直に無窮に継起連鎖するはたらきと出会うことになる。中世には「連歌せず歌をも詠まぬそのひとの寝覚めはさこそ汚なかるらめ」と俗歌にまで詠まれていたほどに日本の「事」と「物」とにはたらく浄化感は文化的な一大特徴であった。実際、この自覚的で明確な例証は、西欧文脈に対するこの列島の言語精神の自覚がもたらした結果の現代美術「もの派の作品」と「舞踏」に、そしてまったく同じもうひとつの「モノ化」現象である飛鳥から奈良そして平安へと移行する時代の、唐にたいして起こった列島言語精神の自覚現象のひとつである紀貫之が整理、システム化した四十八の平仮名文字書體のひとつひとつの容に、はっきりと見て取ることができる。(平仮名の本義は表意文字にもアルファベットのような概念構成単位としての表音文字にも無く西欧言語学やこの国の言語学を逸脱した現代最後に残された未発見の文字体系である。その「言」から成った平仮名書體は漢字という表象文字を契機にはしているが、その漢字や真名を省略化していく延長に成ったものではない。しかもその本来の開発の担い手は今世紀になって発見された平安京の藤原良相(
813〜867)宅跡の高杯にしるされた最古の平仮名出土環境からみてもその当初の開発環境や徹底して漢字という表象を「無化」していく手法からみても女手になるものではなかったはずである。単に利便性のためではなく、「言」の厳密さに添って表象や記号性を厳しく無化した挙げ句に、ありのままの物の出来事を受け止めるために四十八の「言」をそのはたらきかたにしたがってひとつひとつ外郭化し、最後に紀貫之によってシステムアップされたのが四十八文字書體である。この平仮名は文字自体もその組み合わせを関係づける連綿體自体も表現描写するためのものではない。表現せず概念や意味を内包しない日本的無化の形式として、戦後の具体運動や舞踏、そして現代美術のもの派までをも貫くものと同じ、その一回性の純一な排列が身辺を題材に押さえ留りという形式と、とじ目を備えて本末が照合すれば、そこから「物」の連鎖という出来事が始まり来たすことを証ししているのである。なかなか理解されないであろうこの事態は座標系の無い世界における「物と言」のあり方である。「玉緒を通す」という宣長の謂い方が、反転するところで統括していくこの物の連鎖弁証法を二百年もの前にひとり言い得ている。
戦前戦後の抽象美術、コンセプチュアルアートやインスタレーションやデジタルアート時代になっても基本的にはタブローへ再現描写することを本質とする西欧系美術。そこへ決別するかたちで「もの派」や「舞踏」の作品は登場し、自覚的に列島の言語精神にもとづいたところから作品をものにしてきた。しかしそれら物作品は逸脱した美術、未生の美術と呼ばれ、歌俳と同様に第二芸術扱いされてきたのである。そのあげくに「もの派」と蔑称で呼ばれてきた。この「もの派」の名が定着した歴史と「女手」とよばれ公文書体としての真仮名と差別されていた平仮名の呼称とその定着の歴史とは軌を一にしているのである。ただし近年、京都藤原良相宅で発掘された高杯脚部に書かれた平仮名文字による歌の出土状況は、こうした男たちによる平仮名文字書体の厳しい開発状況とその定着状況とを示唆して余りある。現代言語学のアプローチを許さないこの平仮名あるいはその語の平仮名漢字混じりという文字体系とモノ化された書体体系とは、縄文一万年そして連歌連句と現代美術作品を一貫する当「哥座」の「列島言語は高度に函数処理をされた形相言語でありまた、中間言語である(詳細は哥座ゼミで講義)」とする立ち位置以外から理解されることは将来に亘っても難しいかと思われる。万が一この大胆な予想に反する優れた思想が出てきたときは、こころから嬉しく思うだろうし、またその出現を期待する。)
もの派系統の自身の美術制作においては、実際外国の地にあっても列島言語のはたらきにしたがって抑揚ととじ目を備え、首尾一貫した作品をものにできたとき、その作品に立ち会った多くのひとたちは人種の相違を超え遠い記憶をさぐりながらじぶんたちが久しく忘れてしまっていたまなざしに出会い、そこからふたたび見つめなおすという古くてあたらしい視線に代わってきていることが作品を通して自身にも伝わってくる。こうしたことは例外事項ではない。たとえ前衛芸術作品であろうとも外国人が日本現在美術一般に触れたとき感じるものの共通項のひとつに浄化感があげられると、そう以前からいわれていたのだ。こうした経験を積んでいくと、言語空間の位相の違いというものも、その最深淵のところでは両言語系に通底したはたらきがあるように感じられてくる。つまりそのはたらき様は、唯一、普遍妥当性をもつとおもわれている大陸系を源とする一般物理世界以外にもこの列島言語精神のように表現しない表現とか、対象化から外れた「物」の存在とか、相を違えながらいまも強い効力を発揮しつづけているもうひとつ別の芸術・物理系世界がそれぞれに共有されながら存在し、両者間を通底しながらクロスオーバーしつつ地下水脈として、いまも滔々と流れ続けている可能性を示唆しているのである。しかし、大陸系のバーチャル言語世界においてはいうに及ばず、それを移入した列島の現代世界においても、いつのまにか忘れ去られ封印されてしまっていた世界である。
この列島の第一詩人、人麻呂は、この列島特有の地軸の存在に触れそのあり様を「言挙げせぬ」ところではたらくもののあり方として、高い誇りをもって詠いあげている。それにもかかわらずその後、この独自地軸は、その存在自体や、ましてその積極的な意味性が正面からとりあげられることは少なく、むしろその存在こそが、わたくしたちの普遍的論理思考を阻害して科学的思考を育ててこなかった原因であると曲解されてきた。そのわけは、外因的な理由によるものというより、この地軸自体がもとより抱え込んでいる-対象存在となり得ず、可視化もできない-という内部構造の晦渋さに、誤解の大半の原因が潜んでいるからだと思われる。ここでは詳細しないが、列島言語は「物」と「言」との両局面において奇異(くすしあやし)きおもひを喚起させてくれる。と同時に、その感慨をうみだしてくるその構造のあまりのたくみさには、ある種の不気味ささえ感じてしまうほどだ。それは芥川が「歯車」で暗示する漠然とした不安に重なる。その出所は、ありとあらゆる現象のそこに附帯する表象や観念や理(ことわり)からなるコンテンツを括弧に括り、引数としてスケルトンな構造体へ変換してしまふというこの列島地軸特有の「無化」のはたらきに求められるだろう。そこにおいて、この特有の形相(エイドス)言語*資料Aは、座標上に物事を再現仮構していく大陸系言語のはたらきとはまったく異なったはたらき方をしてくる。もうすこし構造的に順を追って説明しよう。まず「物」と「言」とは物事の節目ごとに「無化」をはたらきとする言語函数の排列を完成しようとしてくる。つぎにそれら函数間の排列が照応して、整合性が全体として通い合ひ、純一な排列式となったそのとき(西欧言語の座標上で説明すると、リルケいふ Das
sind die Stunden da ich mich finden ・・・. - そこでわたしが私と出会うそのとき
- という対象化された客体と判断主体とが一致した主客融合の構造をもつ関係式言語表明がここでいう形相言語にちかい。しかし列島言語では”てにをは”という「辞」のたった一音一字で、誰にも詩人リルケなみのいや、それ以上の完璧な主客融合の構造化を果たした形相言語を使いこなすことができる。)しかもその独自なる一回性の実態化された形相言語が縁起となり、そこから無窮の涯まで「物」の氾濫継起が始まりだすのである。みずから身辺の構造化を果たすこと。その条件式が満たされたそのとき、Das
sind die Stunden 外部の物事は再現的描写とはまるで異なった方法で、あるがまま「物」のダイナミックな輝きをいや増してくる。こうした列島地軸上の言語特性の事態の核心を唯一見事に捉えきったのは、宣長の「詞の玉緒」をおいて他には無い。この独自形相言語はその物と言の思考において、すべての現象を座標上へとプロットし対象化してそこで世界を再現構成することをもって思考とする大陸系の言語とはあきらかにちがった思考回路をもっている。列島地軸上の形相言語はあらゆる対象化を拒み、主客の統合視座を基本視点にしたとき”もろもろの当のその「もの(物)」”と、その”物の集約された出入り局面である「こと(言)=(事)」”のはたらが初めてそこから始まりだす。そのやうにできているとしかいいようがない。それは、まづ、大陸系の座標概念に頼らず、しかも先入観を極力廃するために、できうるかぎり知的推論作業を第二義的なものとして「物」に添い「物」に直にかかわることを基本に「もの」の制作をしてきた「哥座(うたくら)」の経験からきた直覚である。つぎにそれをもとに「古言」と照合させ、先人の「論」とすり合わせ、「物」と「言」との統合視座を求める際の作業自体が教えてくれた「こと」の定まりかたである。さらに最後に滓のように沈んだ観念を払い切れば、そこにのこった形相形式がわたくしたちの先験的事項に属する - 貝や節足動物の無脊椎動物でいうところの外郭のような - 殻なのである。それが原初的な出来事を生み出す素としての「言」であり同時に「物」として縄文の各形式から連歌・連句の付け合いの形式、そして茶の湯の形式までを一貫するここでいう純一なる一回性の特質を備えた列島独自形式の形相言語の正体であろう。以上のことを勘案すると、大陸座標系言語には妥当する「貨幣交換システムと言語の流通システムとの比較類推とか、一般心理学や社会学等の科学的方法を応用した分析、そして唯物的、観念的観点や前衛表現美学からの西欧言語学からのもろもろのアプローチ」を形相言語に適用することはみな的はづれであることが分かってくるはずだ。貨幣の流通自体もそうだが、象徴交換や類推が妥当するのは抽象座標上での仮想演算にすぎない。それらはみなそれをリアルへ適用したとき仮想に立脚したゆえの本質的な弱点を抱えることになる。ただしこの辺りはオンラインではなく哥座バージョン3.03以降のオフライン講座でより詳細な話をすることとなる。「知覚」や「思考」においても「制作」においても大陸系のバーチャル再現言語とはまったく異なったはたらきかたをする列島独自の形相言語というものをわたくしたちは普段の暮らしのなかでは自由に使いこなしている。いったん意識されてはじめてこの言語の内部構造の特異さに気付くことになる。しかし、現象を対象化して普遍化した真理をもとめていくしかない従来学問では、その理論上で乗り越えることができない壁がでてきてしまう。闘おうにも主語さえみあたらないこの壁に、現代の思想家による列島言語解明のすべての試みはいまもって撥ね返され続けているのが現実だ。一方に列島地軸のはたらきから生みだされ身辺を照らし出すことでありのままの存在世界との照合をはかろうとしてくる形相言語。他方に大陸系座標のはたらきからうみだされ外部世界の再現性を本質とするバーチャル仮想言語。その両者の違いを「物」と「言」両面にわたる矛盾のない視座から見すえて定着させていくこの作業は、両言語系の描いてきた従来世界観の見直しをせまり、同時に「物」と「言」への最深部へ投じるこの一石が、的さえ違えなければ先史から現代そして未来へとつながる「物」の連鎖としてのあらたな波紋を生みだしてくれるはずである。
いまでは、E=mcへと還元され得るに至った、森羅万象を四個の座標の幾何学に煎じつめる物理世界においては、わたくしたちも概念上、そこにカウントされそれを利用もしている。しかし別項で触れたように、実際は、その場にこの列島の住人は実存の根拠をおいて来なかったし、これからも真に身を置くことはないだろう。一方「言葉は存在の住処である」とするハイデッガー。その言表にみて取れるのはロゴスという抽象座標系に成立したところの伝統的西欧思弁哲学の延長に位置づけされる世界観である。クラシックギリシャ以来それら観念哲学、造形芸術の進捗とパラレルに現象してきた近代自然科学や社会科学世界、それらが根ざしてきた座標系列と、わたくしたちがいまも住み、根をもっている世界(別載)とはあきらかに系統がちがう世界である。
戦後もおわり、第三の核汚染の脅威にさらされるあらたな時代が到来し、もうそろそろいままで封殺していたこの系統の違いを正面切った主題として積極的なものいいをしてもよい時機なのではないか。
その意味で、日本思想の問題点を、「自己不在。主体性の欠如。正統も異端もなく多様な外来思想をプロットする座標軸もなく、原理に対決する覚悟もないために、外来思想をただ空間的に雑居させるにすぎなかった。」という丸山眞男の指弾は、ながく戦後思想界を代表するものの見方であったが、それらは、もっぱらわたくしたち自身の地平に立った批評ではなく、西欧近代座標上から自身を俯瞰的に眺めた見方にすぎなかった。肝心かなめのわたくしたちに備わる独自の地軸の存在や、それが担う積極的な意味には気づかなかった。そのへんが、上空飛行型思考と揶揄される由縁であろう。一方、こうした近代主義者の作業に比べると、1959年の草間彌生の「水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消去)する」と宣言して、わたくしたちの独自座標を軸に存在論的問題を提起し続けた彼女のシリーズ作品の方は、西欧造形芸術や近代主義を超え、この列島におけるはるかな深みからの革命的で正鵠を得た仕事を成してきたといえる。
*資料A 形相言語: ことばが形相言語であるというここでの言い方は、そのまま「物」の世界に適用できる。歌、連歌、俳諧が、「言」の函数排列である一方、たとえば現代美術モノ派の作品群も、従来欧米視点の造型概念のように、主体側の造型表現として成ったものではない。「物」の形相言語として列島独自の一連のエイドスとしての函数排列がそのまま「物」へ具現した姿なのである。欧米抽象芸術作品のオブジェのように、抽象座標上に成立している仮象としての表現作品ではなく、したがって美術でも美術未生でもない。欧米芸術ジャンルを逸脱し、物理系さえ異なる世界における「物」の排列言語なのである。大陸系造形作品成立のプラットフォームとその視座はここにはみあたらない。物事を容れるあらゆる座標系は裏返しにされて具体的な作品をはじめとするあるがままの物の連鎖がそこからひろがる無辺で無窮の世界になっている。このあからさまにあるいは革命的に逆転した世界を押さえないことにはこの列島でいくら美術批評をしても肝心なところは抜け落ちてしまい、それは欧米美学概念を援用した外部からのみたてにとどまるしかないだろう。先史縄文の一万余年にわたる「物」としての縄文土器にたいしても、現代美術の「物」にはたらいているのとまったくおなじ形相言語としての先験的幾何がはたらいていることが諒解できなければ、今後何世紀たったとしてもそれは原始的な呪術世界の制作原理でつくられたものだとか、四次元や五次元の作品だとかいうレッテルを貼って思考停止したままになるだろう。それは勘違いもはなはだしいのだ。呪術世界の名は縄文ではなく現代にこそふさわしい。出土品をみる限り、先史は、表象や理に惑わされずいまよりよほど覚醒していた時代である。
和歌俳諧は芸術としての一行詩ではなく文学などというジャンルを超えた「言」としての形相言語である。形相排列を形成する「言」のはたらきによりわずか31文字や17文字さらに短い排列ユニットでもって形式の純一性が保障され、その限り、ミクロからマクロまでのあらゆる世界の素材を引数とし効率よく表現しつくすことが可能になっている。それと同時に、もの派の作品は芸術としての造型作品ではなく仮象概念を括り、函(つつ)む函数構造をもたせた「物」の形相言語としてやはり函数排列になっているのである。そのことは実は作家自体はよく自覚している。それはかれら作家たちの作品表題がよく物語っている。関根伸夫の《位相》、李禹煥の《関係項》、菅木志雄の《無限状況》《潜態の場化》《界差》《全体のかたむきT・U》《並列層》《事位》《分界支空》・・・等々。
このあたり、列島独自の形相言語の特性をよく顕わしている菅作品について語った東京国立近代美術館チーフ・キュレーター本江邦夫氏の「Plaza
Gallery 企画展によせて1992年」の短文資料が手元にあったので、左に引用紹介させていただいた。「今日にいたるまで、いったいだれがこのとらえがたい作家について十分に論じえたであろうか。自己完結した存在。いわば鉾と楯をもった戦士に、彼は似ている。作品をつくり、いかにも個性的なやり方で自らの言説を織りなしつつ、そのうちなる精神の王国を築いてやまない。作品そのものにはあれだけの空間の広がりがあり、視線はそこをつらぬいて虚空へと消えていくことすらあるのに、その核心はあたかも見えない壁に守られているかのようだ。あるいはこういってもいいかもしれない。菅木志雄の作品はなにもかもイデアルな全体の一部、もしくはその影に過ぎず、あるいはまた彼にとって制作するとは静まりかえった水面にふと風の吹く、その波紋、それともその風にさやぐ雑木林のゆらめきのようなものだと。やや気まぐれな言い方がゆるされるなら、菅木志雄そのひとが、ひとつの半透明な空気、ないし心的なエネルギーの塊で、作品とは刻々と変化してやまないその局面のひとつにすぎないともいえるだろう。菅木志雄 - 跳躍について 1992.11.7 」 本江邦夫氏
描写表現という意味では、この函数はそれ自体ではなにもあらわさず、表象もイメージ化も喚起しない。中古、中世にかけての学者たちが「言」に於いて詞を函(つつ)む”てにをは”がそれ自体は意味を保持せず、詞と次元を異にしたものであると解釈してきたのと同じ意味であり、その排列のとじ目ごとを函数であるとするならば、もの派の作品もまた、その作品に相対したとき、物体という仮象を函(つつ)む形相言語としての「物」の函数排列となっていることを確認できるのである。
一連のこの「言」と「物」の函数式をおそろしく単純化してプログラミング言語概念に置き換えていうならばその構造を記述したソースがエラーなく「コンパイルされて主客未分化としての「物」そのものに読み取られたとき、そこではじめてわたくしたちのことばも「言」として具体的に受け止め得て身体化できたものとなる」といえる。しかしこの事態は常にアンビバレントな見え方をしてくる。物質として見えると同時に物として不可視であるという言い方が可能である。それはこの函数構造をもつ一連の排列がインド・アーリア語族や中国といった大陸系論理思考の時空間座標の造型視点に映り込まないという、機能的な意味における見えない構造をしている。ここでいう「スケルトン」な透明構造体である。対象存在としての物質を揚棄して「物」と成り、そこを縁起として無窮の「物」の連鎖が始まりだし、逆にその涯から”見ゆ”という仕方で見えてくる「物」であるからだ。
哥座は、箱物としての概念の住処に安住せず、ことばを翼に、概念とその内包する意味という構造を越えて、たまきはる内なるおもひを天翔け、見ることや概念演算による思考形態に代わり得るわたくしたちの「見ゆ」というあり方、「おもひ」のありかたの独自幾何を深めゆきたい。二0一一年五月七日深夜
「お知らせ」
いままで「物」と「言」との両局面にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきたが予想より早く「物・言」が現成する際の構造の核心部を晃かとすることができた。これまで「物」と「言」両面にわたる統一理論の欠如というものが、列島の明治以降に限ってみても産官学のナリスマシ族の跋扈を許す一因となってきたのはあきらかだ。たとえば自然科学にたいする列島の独自批判原理の欠如した科学者には原子力という高密度の「物」のエネルギーのコントロールは現実的に無理である。社会科学や遺伝子工学など先端医学の各分野においてもしかり。複合化した巨大技術の現実は国際政治や経済と複雑に絡み合っており、それに対応できる「物」と「言」とに通じる批判原理がなければ自然・社会諸科学のこれら巨大テクノロジーはめいめいが専門領域で独走をはじめるだろう。それを見透かしたかのように分割統治を得意とする一部権力者たちは本来社会資本であるべきものを民意を無視して巨大利権を貪るための欲望装置と化してしまうはづだ。事実、原子力関連の各科学者と技術者はみづから関わったプロジェクトにおいて、それがどれほどひどい結果をもたらしたとしても、それはほかのジャンルの問題であり、あるいは悪用されたものである。だからしてそこには自身はいっさい関係が無く、みづからの立場は聖域であるといい抜けしてきた。311はその行き着いたさきの悲劇のひとつを象徴している。
ところで、列島の真・美の判定の基準は先史縄文から現代美術までどこをとってみても、従来美学者がいってきたような大陸系の造形美や論理構成美に求められるものではない。それは、歌・俳と同じように「物」と「言」の一回性の言語形式排列が純一なるものになっているかどうか(オブジェクト指向のプログラム言語でいえばPASSが通っているかどうか)(宣長言語でいえばそこで緒としての「辞」が玉としての「詞」を貫いて玉を輝かせているかどうか)にかかっているのである。このあたりバーション三、〇三以降のオフライン講座で詳細するが、列島の「物」と「言」と「身体」言語は人称を明確にする表現言語ではなく非人称性を特徴とする中間言語になっているのである。そこに与してはじめて現実態に成りうることばであるという意味においては、一種の形相(エイドス)言語であるといえる。座標を前提とする再現言語が主観に帰属しながらひたすらそのフィルター上の再現描写の正確性にその本質をもっていることとは対照的に、列島言語は中間言語としてその「物」と「言」の排列の本末を合い照らし、またたとえば係り結びがただしく通っているかどうかという身辺を基準としたささいな形相の純一な結び方ひとつに「言」「物」という言語宇宙の開示がかかっている。緒(パス)が通ればそこからありのままの物・事が始まり、内と外とは照応し合い世界は輝きをいや増してくる。ちょうど「花の窟(いわや)の掛け縄」のように純一な排列が縁起となって外部、すなわちここでは熊野の山と補陀落の海とを融通する美と真の主客体の融合としての出来事が「物」の氾濫としてその波紋は無窮の涯まで継起連鎖していくのである。緒(パス)が通らないと外部と融通した真・美の出来事は起こってこない。よくても太山寺で紹介した芭蕉句碑の一字違いの句のように、描写としてのただごと、きれいごとに終わってしまう。その在り様は列島の「言」・「物」・「身」においてまったく同じである。土方巽や大野の現代舞踏や菅木志雄の作品におけるとき(時)というものを追体験した上で、大陸系にルーツをもつ他の描写作品と比較してみるといい。描写された作品は座標上のただごとかそこに限定された物語になっているはずである。その外へと、とき(時)は流れ出さず、広がりもそこにとどまったきり、周縁へ拡がり出していかない。(ここでは言語現象を概念思考言語と非概念化言語とにおおきく二種類に分け、さらにオブジェクト指向のプログラム言語で使われている中間言語という概念を導入して、言語現象過程を二段階で捉えている。これらの用語はあくまで作業仮説概念である。)
こうしたところを仔細に検証していくと列島の真美の規範は印中欧の美の基準とはまるで異なったものであることがわかってくる。そこでだれもが知るインドアーリア語族の大陸美の一例としてダ・ヴィンチの作品をあげてみよう。わたしたちの常識に反し、列島の真と美の基準から見た場合、シンメトリーに代表される欧米の構成主義美学の本質は造形的抽象座標という観念のフィルターを通して観た世界の死体解剖図になっている。座標上に再現されたものは、いかなるものも、もうものそのものではありえない。そこでもののいのちは奪われ、ものの直の輝きは失せてしまっている。その意味で天才ダ・ヴィンチの人体の美しさというものは解剖台に載せた死体に化粧をほどこした美しさなのである。ルネッサンスの正体は中世神学から開放された人間賛歌ではない。彼らを暗黒の中世から救済してくれているもの。それは、やはり表象や原理という観念であり神学から科学主義に名をかえたあらたなる暗黒の空虚であったのだ。そのためあらゆる表現が観念的合目的性への来迎図と堕してしまっているのである。ダマサレテハナラナイ!彼ら西欧は有史以来、メメントモリと唱えながらたえず死臭を嗅いでいないと現在の生さえ自覚、覚醒ができないひどいニヒリズムのドツボに浸かっているのだ。古代ギリシャの観念的コスモス座標を継承して以来、そんな宿命を背負ってしまったいびつ文化が西欧である。
ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院の「最後の晩餐」の透視図法を見よ。中央のイエスが神として復活し再現描写されているのは再現性に芸術・科学の本質をおいた彼らの精神座標系にとって必然の出来事である。時空座標の収束するゼロ点に復活したイエスの再現された世界における罪と赦しの心理操作の恐怖はここで美と自由と人間開放と言い換えられ、それを神が保障するというかたちでヨーロッパの人間主義は起こった。また、近代に入ってからその美と科学の価値を規範として輸入し移植してきたのが近代日本である。いまこそダ・ヴィンチのもうひとつの傑作あの「モナリザ」の微笑みは列島言語精神とは対称的な再現された死のシンボルであり、そこに底なしのニヒリズムが隠されて在るということに気がつかなくてはならない。わたくしたち列島言語精神は「物」「言」を主客分離未然の場において、あるがままに輝かせることができる。大陸系の主要言語には見当たらないはたらきかたをする。外部を説明したり、概念規定をしたり、象徴せず、描写しないことをてにをはといふ「辞」のはたらきに添ひながら自覚的に深化させることでそれが可能となってくる。一見単純で幼稚に見えるこの列島言語の構造とその逆関節技めいたその不可思議なはたらき方については、人麻呂以来、すぐれた賢人がいくどとなく指摘してきたことではある。
「最後の晩餐 修復の景」 撮影:哥座
いったん哥座は列島言語精神のすべての秘密をバーション三、〇三に隈なく反映させることに成功した。しかし、すべてをオモテへ顕わにすると「物・言」に聴き入る愉しみが無くなるばかりか「物」の輝きが失せてしまう。*)そこで、旧バージョンへと差し戻した。ただし、オフラインでは新バージョンの一部をテキスト化し、それをこゑや物の具体的なパフォーマンスとして作品やライブ討議へ活かしていく。質問等は哥座美学研究所へMAIL
二0一二年十二月十一日現在
いつか、W3C勧告案程度であった表記規制やコードが、ついに、世界統一憲法として公布され、 現実のあなたは、ニセモノとなり、ハイパー情報のなかで流通しているバーチャルのあなたがホンモノとされる。といった日が来るかも知れない。 いや、実はそうした時代は一部、そこまで来てしまっている。なにごとも、サーバー情報に照らし合はされて、相対化され、 リアルな発言力は、無くなりつつある今日。いまにも増して高度AIにサポートされた情報社会では 、タグづけできない情報の存在度はゼロに等しく、バーチャルの光だけがいや増していくこととなるだろう。
哥座(うたくら)は、オフラインの実作を基本としている。いまの統一情報基準の基では、情報化しにくい「にほひ」・「俤」などローカルな属性概念に焦点を当て、わたくしたち固有の身体軸にもとづいた、身近の先験的韻文空間を探険する。しかし、有無を言わさない「情報革新技術」。この進化と変化速度にそいながら、リアルで獲得した古くて新しい視座を武器に、また、オンライン上でも「情報」の意味を不断に問い直し、リアルタイムに情報技術の根底にある思想を分析していきたい。
やがて、ローカルな属性概念や、匠の技や、なにげな感覚もシナプスレベルで情報化されるだろう。すべて、この世に存在しているもので情報となりえないものはないからだ。しかし、この一点、バーチャルとリアル、言い換えれば情報と具体、あるいは知と存在。この根本関係こそが古代のギリシャでも印度でも中国でも核心テーマであったように、今後も、大袈裟に言えばふたたび文明の最重要課題となる日がやってくるであろう。哥座(うたくら)は、この情報と具体の関係を日本の無文字時代に遡って(実はわたくしたちの心性は、いまだに無文字時代の只中を活きているのだが、そのことを証明しつつ)その無文字時代空間を手懸りに、印欧中の概念に拠らず、固有の文脈、身体を軸にして、いまを野性的に解明してかかるつもりだ。その際、アバンギャルドに対抗するように六十年代に関西ではじまり、モノ派、土方巽、などの流れにつながっていくことになった名前もそのものズバリ「具体運動」。そこへもういちど、光をあててみたい。ポストモダンの代表的運動として、世界へ大きな影響を与えながら、いま情報社会のなかに、ふたたび飲み込まれてしまったように見える「具体運動」。そして「モノ派」から現在への流れ。その曲折の断層面に、問題解明のよいきっかけが発見できるだろうと予感している。たぶん印・中・朝文化を受容した後の飛鳥から平安にかけても、表記文字化という第一波の情報新時代の波に洗われでた類似断層面が発生しているはずだ。-「上代特殊仮名遣いの甲乙の別」その消息とはまさにその例にあたるだろう。
附 記
ふだんからなじみ深い裏手の山や前浜の海など、身近の自然やジブンの身体は、すでに了解済みの「空間」のなかに、疑うこともなく自明に存在している。
「哥座(うたくら)」では、「こと」「もの」が生成流転しているこの無意識空間を再検証し、未来への視座を見つけていきたい。その方法として先づ、わたくしたち固有の考え方、とりわけ、ことばに内在している固有のロゴスに触れていく。とくに詩歌の韻文に働くチカラを分析、検証していく。韻文空間の座標軸確定に際しては、わたくしたち固有の文体からの発現を待つ意味で、印・欧・中の概念使用はできるだけ控え、いまも普段に使用している古くからの「ことば」や古典の「ことば」自体が本来もっている意味や関係性を最大の手掛りにしていく。万葉集はじめ、多くの歌仙の哥、俳諧、詩、J-POPまでのこれら「韻文」は、ながい時の熟成により、先人より受け継いできた身体空間や歴史、自然空間へと昇華され、「わたくしたち」の空間システムの原型となり、具体的な血肉となっている。あるいは逆に、わたくしたち自身をさえ紡ぎだしてくれている。
どんなにちいさな言語文化圏であろうと、ジブンたち固有のことばが生み出すちからにこそ、智慧の源があり、真の活力はそこからしか生まれてこないことを知っている。インターネットなど革新的情報技術を媒介にした国際化時代にあたって、外国文化を吸収しながら自国文化へいかしていこうとする機会は、飛躍的に増加している。こんな時代だからこそ、いかなる国もまず、ジブンたちのあしもとにはたらく言葉のチカラや法を自覚することが基本となる。内を自覚できないでいては、外を客観的に見る眼差しは生まれてこないし、だいいち、その眼差しにもとづいてこそ成立するべき世界と対話するチカラが湧いてこない。そうなれば違いを認め合いながらの真に深まった相互理解というものもあり得ないことになるからだ。しかし、欧米の論理的思考を絶対とし、その視点へナリスマシ、母国語を廃止して英語にすべきだと考えていたのがこの国の初代文部大臣である。ここまでひどくなくても、宣長が指摘するようにこの国の文化の最大の問題点は、江戸時代からすでに、学者であろうと、庶民であろうと、大部分のひとびとが、母国語の視座でものを考えることができないでいる点に存する。ほとんど病的なその症状は脱亜入欧がいわれた明治期においてさらに進行し、敗戦を経た今日なおも悪化の一途をたどるばかりである。
当然のことではあるが、独自言語文化圏の詩歌とは、そこに独自の法がはたらく各国精神文化の柱である。そこに、他の一言語文化圏の視点から、軽佻浮薄に比較、判断して、優劣をつけるようなことがあってはならない。おのおのの精神文化は相互に不可侵でア・プリオリな事柄だ。ところが、日本における明治の啓蒙家は、自らの詩歌である和歌を、趣味程度のもの、無用のものだとしていち文学ジャンルへ退け、代って利得思想を喧伝して教育者だということに収まっている。文明開化の第一人者でさえその基礎教養は、漢学(亀井流左伝学)や蘭学に依拠したものでしかなかった。官は、軍国主義的観点から、民は、功利主義的観点から、ともに当の教育者自身が、母国語の視座にたいする基本的自覚さえ持ち合わせていなかったのだ。あの古代中央集権国家のもとに編纂された古事記、万葉集でさえ、外国文字を取り入れるに際しては、訓読みなど、古言(フルコト)を活かすためのさまざまな努力工夫をほどこしてきたというのに。
由々しきは、明治期の粗雑な精神をいまだ継承し続けている現在の教育・研究機関であろう。官民問わず、大部分の組織がいまなお、すべての学問の前提としてある母国語に於ける視座という大問題を棚上げにして、明治期の効率優先主義の悪しき伝統そのままに、翻訳概念にもとづいた空論を展開しつづけている。そんな卑近な例には事欠かないが、ひとつは、戦後日本の代表的教養主義者による「俳句第二芸術論」である。その独白から伝わってくるものは、母国語ではなく欧米という一言語文化圏の視座からみた芸術・学問・概念・論理が唯一普遍的なもの、国際的なものであり、どの言語文化圏にも適用できるという盲目的信仰告白である。それは中古以前に起源をもつ日本の風土病、ナリスマシ菌感染病患者の典型的症状といってもよかろう。また近々は、欧米研究機関の「知」の再構成を模した動きのひとつの現象として、産学協同での各種プロジェクトが盛んであり、それなりの効果を生んでいるようだ、たしかに、先端的な学術研究の推進と科学技術の発展をはかり、国際競争力を強化し、かつ文化的基盤をいっそう充実・向上させることは大事だ。が、その前の学問成立の必要条件として、母国語に於ける視座のもと、「知」というものの中身の意味をいちどわたくしたち独自のことばに備わるルールにより問い直さなければいけないのではないだろうか。そのプロセスを省いて、環境や、情報、総合政策学などの概念を運用していけば、歴史が教えるように、母国語の法にもとづいた検証のない、イメージされただけの概念運用はいつか必ずや空洞化をきたして、破綻を来してしまう。でも現実は、ナリスマシ族が大手を振ってまかり通っており、その場しのぎの観念的概念を造語しては、自己陶酔的に国内外に押し売りし、カルト教団顔負けに、純朴なひとびとのこころを惑わし続けている。母国語にはたらいている視座を自覚し得ない精神は、結局は、とってつけた翻訳造語観念が空洞化し、そこへ権力が介入、妄想化、暴走したあげくにナチス文庫まで至って自爆した日本の哲学史とあい似た宿命を辿ることになるだろう。
学問、芸術のみならず、一般の生活レベルにおいても、母国語にはたらく法の自覚がまだできていない(それが国家であれ個人であれ)有能な未来の才能がこうしたナリスマシ教育機関のシステムにマインドコントロールされているのを目撃するのは辛い。愛する人のそんな姿に触れるのは悲しすぎる。
さいわい、わたくしたちには身近なところにジブンタチの法・ロゴスが十全に働いている和歌、俳諧といったお手本がある。そのなかには、ジブンたち固有で等身大の、欧米でいうところのものとは、また相が違っているが、独自の幾何と、数理、基本的なロゴスが働いている。その視座を基本として欧米自然・社会・情報科学・芸術の意味を批判的に再摂取し得なければ、国際化どころか未来の精神的独立性さえ維持はできないだろう。左記にわたくしたちの言語文化圏にいま求められている未来の学問の、決して十分条件ではないが、必要条件をあげておく。クラシックギリシャ文化にぉける学問には、まず、すべてのジャンルの基本をなす音楽や詩と同等なものとして、幾何学の理解が必須であった、そこで自然言語より厳密な専門的な論理を学ぶ必要があった。当然わたくしたちの言語にはたらく論理法の習得にも、四股を踏み、股割りをしなければ相撲がとれないような、普段の垢にまみれた通俗観念を祓い、意識的な概念構成や常識の意味から離れたところで純粋思考する厳密な修練が要請されてくる。自己視座を養成する自国言語の厳密な訓練もなく、欧米の視座に寄りかかってデスクワークで学問ができたり、芸術が生まれるとの信仰は、明治以降の既存教育システムの限界からうまれた幻想にすぎない。私事だが、従来美学や、舞踏という身体芸術や、モノ派的な現代美術制作にかかわってきた現場経験から、他国文化の視座でいきてしまっている心身をこのマインドコントロールから開放し、母国語という普段のあたりまえの視座へ矯正することが、いかにむづかしく、時間がかかるかを少しは体験してきたつもりだ。
「とにかくに漢意(カラゴヽロ・ここでは欧米的発想)は、のぞこりがたき物になむ有ける」-宣長。
そこで、自身にも、人にも適用、指導しているのが、いちど従来の学問や芸術から離れ、和歌、俳諧へ専念する期間を設ける方法である。専門家のもとで、厳しく実作指導されれば、ナリスマシの視座がいかに観念的なものであったかを得心できよう。これは、国文研究者とて例外ではない。従来学問の視点から母国語を分析したところで荘子の「混沌」殺しの結果しかでてこない。よっぽどの天才でないかぎり、座のなかで叩かれ、具体的な実作をとおしてしか母国語の視座はひらかれないはずだ。そうして、一年もすれば、ジブン自身の視座の芽がでてきて、従来の芸術・学問における「知」の限界に具体的におもいをめぐらせるようになるはずだ。ただし、インテリゲンチャだと思い込んでいる人ほど専門家に厳しく叩かれることを覚悟したほうがよい。それほど、歴史的にも印度・中国・欧米へ寄生してきたわたくしたちのナリスマシ精神の根は深い。実に、「のぞこりがたき物になむ有ける」。
なお、ここで和歌・俳諧を古代へのあこがれだけで、無条件に賞賛するものでもないことを断っておく。これらの内にはたらくことばの法が、わたくしたちの心身の深いところでいまなお活き続け、きっとわたくしたちの未来さえ規定していくはずのものだからである。しかしながら、現実の歌人・俳人の大多数は、こうした法が無意識のうちに、いまの日本の舞踏や現代美術の底流をなしていること、さらに、芸術、自然、社会科学を含めた学問にも、その自覚の適用が必要だということには気付いていない。あるいは気付いていたとしても、その適用を端から諦めているかのようにみえる。彼らの多くもまた、結社、歌会の狭いジャンルで棲息しつづけているために、ジャンルが違えばジブンを裏切り、たちまち欧米ナリスマシの視座にきりかわった人種へと変貌してしまうのだ。
わたくしたちの国の国会図書館ロビーには、プラトンのアカデメイアの「幾何学を学ばざるものこの門をくぐるべからず」という箴言がギリシャ語で堂々かかげられている。いまのグローバル時代にあってはもちろんのこと、どんな時代にあっても、当該の歴代覇権国家が主導する学問なり技術の導入は必要である。しかし、ギリシャ語や中国語、英語、数学語、AI言語で育ってきたわけではない者にとっては、外国言語精神文化を学ぶまえに、母語にはたらく法の体得を先にしたいと考えるのは自然の感情であるはずだ。使い慣れた母語の法の自得とそれにもとづいた科学的独自方法論の確立なくして、世界に通用する創造的ななにかができるというのであろうか。すべての深い思惟と、行為の根拠というものは、どの時代、どの言語文化圏のひとびとにあっても、自らの言語精神に基づかないものはないであろう。まして、なによりもわたくしたちの母語には、人麻呂が誇り高く暗示する「言挙げせぬ国のメタフィジカと、フィジカ」のとんでもない鉱脈が眠っているのだ。他言語精神文化に由来する近代自然科学や、人文社会科学はすべて、こうした母語の力学を自覚し、それを支点にし得たとき、はじめてそこで、わたくしたちにとっての有意味性もまた、あたらしくうまれてくるものと思われる。詩経に当たるべき和歌、俳諧は、一首一句がそのままのかたちで活きた文法であり、具体的な座標である。即ち、そこへはたらく法の自得とそこで独自視座を培うことこそ、アカデメイアの幾何に代へ、わたくしたちが基本とすべき学びなのではなかろうか。
「和歌、俳諧にはたらく言葉の法を学ば去る者、この門に入るべからず」
哥座(うたくら) 美学研究所
WWWの果たてを限りとする無限大の智慧へ
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About us
*二)印欧語族は彼らの言語規範による時空間の許では、すべての存在事物を仮構した座標上へと再現し、そこで物事を対象化する以外に思考の方法を知らない。その行き着いた先のひとつがヘーゲル「精神現象学」だ。この伝統的観念論の枠組みはそのままフォイエルバッハを経て、英国経験論を綜合しつつ唯物論のマルクスへ、一方は「誘惑者の日記」のキルケゴールからハイデッガーのドイツロマンティシズムの系譜へ回帰しながら継承されていった。しかし、その後のどんなリアリズムの左翼映像手法や反芸術、抽象表現主義前衛運動もこの観念論の枠組み自体を壊すには至らなかった。いまの汎世界的とも見える自然・社会諸科学の基本枠も結局はこの古代ギリシャ以来のコスモス観念論で構成されている。
*三)万葉仮名をロゼッタストーンにして、古言の原野へ分け入る。
古言の精神文化とすっかり切り離されてしまった感のある現代のわたくしたちにあって、一字一音の平仮名の古筆書體を概念論理で見ずして「物」として見、その上で真名を手がかりにその奥の原音を尋ねていくことができれば、”「もの」はすなわち「こと」であるという古言の地平”へ直に降り立てることになる。そのとき、現代美術の「もの派」の「物」の作品は、先史の早期縄文の波状口縁尖底式や中期の火炎式の器と同様に、その本義を描写や造形的な再現性に置かず、「物」として「言」のはたらき方の具体的手順に着目して成った「もの」であること、そしてまた「現代舞踏」の振りの姿勢も、やはり「物としての身」のはたらき方にその着目点と手順のすべてが在ることに気付くことになるだろう。それはつまり平仮名一字一字の「物」としての筆體やそれら間の関連式である連綿體の展開のあり様も、はるか先史の縄文器の制作形式と呼応し、そして連歌、連俳、さらに現代美術の制作方法までをも一貫する「言」のはたらきのもとに成ったものであり、それは一回性の純一な排列式として、主客を融合する統括形式そのものであり、そこを起点に「物」の氾濫が継起してくるといふ一点で、すべては例外もなく完璧に同期していることに気付くことでもある。
古言は恒なる現代をまさに前衛として活き続けている未来の眼差しである。
紀貫之は平仮名を古今集と土佐日記で整理、統合したが、それらの作業は列島独自の方法に則って、言語を言と物(音・書體)にわたり、隈なくシステムアップするという一大事業であった。すなわちそれは平仮名のそれぞれ一字一體の(古筆)書體をいわば「言」のアルゴリズムとして整理統合し、その四十八體による日本語プログラムを完成する作業であったのだ。
ところで、漢字から借字してきた歴史にひきづられ、その由来をもって平仮名の本質としてしまうことが多いが、それでは肝心な平仮名の本義を見落としてしまうことになる。従来言語学の文字概念には死角が存在しているのである。そのひとつは平仮名のこの一字一體の書體で書かれた文字は、中国文字である漢字のような外界現実を象徴化した表意文字でないのはもちろんのこと。だからといって、漢字を崩していって単純にアルファベットのような表音文字にしたものでもないという点にある。平仮名はそれ自身は意味を内包しない。しかしだからといって意味概念を構成する単位記号であるともいえないのである。
(平仮名の「物」=「言」としてある在り方をよく観察すれば、平仮名文字が表意文字でもなく表音文字でもないことが明らかとなってくるが、そこで同時に音義説や言霊説の正体が俗説であることも明らかとし得る。
- バージョン5.01で詳細 - この列島における「言」や「物」はそれ自身がそれ自体の存在である以外、なんらの意味も表象も保持していない。かえって真名に遺っていた表象や意味論理という他者性の残滓を徹底して無化しようとしてはたらく。先史から有史を一貫してきた「言」の必然として、その歴史的局面で具体化したものが平仮名である。そんな言や物に霊が宿るといった考え方はアニミズムであり、それは天竺、中華、泰西の権力システムが要請する仮構された写像を外界と対応させていく結果、「物」と「言」との分裂思考が必然した「不幸なる意識」。その分裂意識の許における空疎な観念への素朴な信仰にすぎない)
平仮名は音標文字のように概念論理を構成する記号としての一単位ではない。平仮名はまったくどの文字文化にも分類できない「言」=「物」としての特異なる文字体系をもった文字である。大陸系の各種文字のように表現描写するためのツールとしての文字ではない。いままで世界がその本質を見抜いていなかった言語学上で未分類、未発見の文字として表意、表音いづれにも属さない第三の文字なのである。それは現代美術「もの派」の作品が従来のどんな造形理論からも逸脱した美術未生の第三美術である事態と同じであり、その代表作家である菅の「物」の作品と同位相におけるエイドス(形相)として、「言」が「物」化された結果に成った中間言語としての文字なのである。結論を先取りすると、世界の内と外との境界であり、表と裏とを返すときの折り目が平仮名である。その一回性にして純一な古筆書體の在り様を哥座(うたくら)は形相あるいは外殻といっておく。(詳細は
哥座バージョン5.01で)真名をロゼッタストーンとしてこれらのつまり四十八のアルゴリズムのinputとoutputを逆に見ていけば、列島の先史言語の原音と意味の全てが、またこの列島原語精神に基づく全ての活動を余すところなく、しかも隈なく明らめることができる。真名をロゼッタストーンとしたときの古筆平仮名の「物」としての書體はそんなタイムトンネルである、未だ知られざるしかし、なつかしい風が吹きすさぶ古言の「物」の氾濫する原野へと誘ってくれているのである。
注)推奨環境:XPかビスタ。14か17インチ。Explorer
5.5以降。なお、バイオなど一部製品やマックで、縦書きレイアウト他機能不可。
注)オリジナル以外の、すべてのコンテンツは、韻文空間を探求する哥座(うたくら)が、美学研究用に、基データを縦書き表記変換したものである。内容に一切手は加えてない、本文に直接関係のない
前書など、若干だが、割愛した箇所がある。よって文学資料としての精確度を 求める向きは、 しかるべき専門文学データへ直接当たることをお薦めしたい。