古今和歌集仮名序 伝紀貫之筆
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ウタクラ 目録
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言挙げせぬ国の
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手爾葉シリーズ 「無窮」
Manazuru Cape 哥座
ふだんその差は見えにくく、また格別に意識はしていないけれど、これほどまでに翻訳が一般化し、またIT化で国際間の緻密なコミュニケーションが常時はかられるようになった現代にあって、こんな国際化時代だからこそなのか「私たちのものの受け止め方やものの表現の仕方は印欧中に代表される大陸のそれとはどうも根本的に違っているのではないか。」最近、こうした国際化とは逆行した喰い違いの感覚やそれに伴う素朴な疑問の声を聞く機会が多くなってきた。それは芸術作品の制作だけでなく、とくに国際間で物をつくり提示していく必要からものを突き詰めて製作していく産業方面での「ものづくり」の現場からもこの種の違和感の声が上がるようになってきている。一般的に、ものの受容と表現にまつわる感覚や考え方の相違は民族の歴史や地域、気候風土そして、そこから来る生活習慣や生産手段などの環境の差から来ているのであって、それは世界の生活のレベルの差が縮小していくに連れ、いづれその差も解消していくと思われてきた。また、主語が省略されている日本語は、言語構成法も大陸言語とは逆であるが、これら文法上の違いによる差異感も、AIや翻訳技術の向上により近い将来霧散解消するだろうとまで云われてきた。さらにそもそも文字も持たず、みずから抽象概念を生み出さすことのなかった日本語は、高度文明から切り離された未発達の言語である。故に・・・。と事大主義的な言語進化の観点から劣等言語として論理構成力や表現描写力の弱さといった差異感が説明されてもきた。
これらの一般説は、言語の役割や目的は、地域がちがってもそれは歴史段階の相違に還元できる差であり、あるいは文化的な属性の違いであり、どの言語も本質的には終局同じ目的をもつものであり、生活や生産手段に欠かせないコミュニケーションツールであるとする。つまり言語を対象化して歴史発展段階で観ていこうとする近代言語史観というべきものからきた説である。
しかし哥座はバーションXの本論で明らかにするように、この喰い違い感の原因をあきらかにしていく作業を多角的に世界中で行ってきた。ことに「物」においてはみづから右イメージの「手爾葉シリーズ」にみられる客体と主体との係わり合いに的を絞った「物」と「身体」とによる思考実験から実作レベルまで、そのときその場と対話しながらの各種作業を実践してきた。その地は足もとのこの列島はもとより英国ヨークシャーそしてイタリアナポリ、シチリアのエトナまた線文字Bとクラシックギリシャとの係わり合いを突き止めることをテーマにしてめぐったエーゲ海上に浮かぶミュケナイ時代の中心地のひとつナクサス島やサントリー二島。また中近東の砂漠やアメリカ大陸ナバホ居留区、そのほかマレーや中国東北部、朝鮮半島にまで及ぶ。N.Yの国際貿易センタービルでの作業はあの9.11の十一年前のことになる。その際「身」と「物」とが一体化するプロセスから「こゑにならない声」を拾い出し、そのはたらき方を唯一の手掛かりに「古言」や「各種論考」そして「縄文」、「現代美術」までの検証にあたってきた。それが現在の「哥座」へとつながっている。
以下は大幅改訂作業中 2013年12月 - 2015年春完了予定 。
そこで発見できたもの。それはあまりに多く、いまだオンライン化し切れていない。
*オフラインテキストの詳細につきましては「Aibit,Co., Ltd. 哥座」までメールでお問い合わせください。
いまでは、E=mcへと還元され得るに至った、森羅万象を四個の座標の幾何学に煎じつめる物理世界においては、わたくしたちも概念上、そこにカウントされそれを利用もしている。しかし別項で触れ、また「哥座バージョンV.」で詳細するように、実際は、その場にこの列島の住人は実存の根拠をおいて来なかったし、これからも真に身を置くことはないだろう。一方「言葉は存在の住処である」とするハイデッガー。その哲学的言表からみて取れる世界は。。。以下は大幅改訂作業中
2013年12月 - 2015年春完了予定。。
戦後もおわり、第三の核汚染の脅威にさらされるあらたな時代が到来し、もうそろそろいままで封殺していたこの系統の違いを正面切った主題として積極的なものいいをしてもよい時機なのではないか。
その意味で、日本思想の問題点を、「自己不在。主体性の欠如。正統も異端もなく多様な外来思想をプロットする座標軸もなく、原理に対決する覚悟もないために、外来思想をただ空間的に雑居させるにすぎなかった。」という丸山眞男の指弾は、ながく戦後思想界を代表するものの見方であったが、それらは、もっぱらわたくしたち自身の地平に立った批評ではなく、西欧近代座標上から自身を俯瞰的に眺めた見方にすぎなかった。肝心かなめのわたくしたちに備わる独自の地軸の存在や、それが担う積極的な意味には気づかなかった。そのへんが、上空飛行型思考と揶揄される由縁であろう。一方、こうした近代主義者の作業に比べると、1959年の草間彌生の「水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網によって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消去)する」と宣言して、わたくしたちの独自座標を軸に存在論的問題を提起し続けた彼女のシリーズ作品の方は、西欧造形芸術や近代主義を超え、この列島におけるはるかな深みからの革命的で正鵠を得た仕事を成してきたといえる。
*資料A 以下は大幅改訂作業中
2013年12月 - 2015年春完了予定。
そのことは実は作家自体はよく自覚している。それはかれら作家たちの作品表題がよく物語っている。関根伸夫の《位相》、李禹煥の《関係項》、菅木志雄の《無限状況》《潜態の場化》《界差》《全体のかたむきT・U》《並列層》《事位》《分界支空》・・・等々。
このあたり、列島独自の特性をよく顕わしている菅作品について語った東京国立近代美術館チーフ・キュレーター本江邦夫氏の「Plaza
Gallery 企画展によせて1992年」の短文資料が手元にあったので、左に引用紹介させていただいた。「今日にいたるまで、いったいだれがこのとらえがたい作家について十分に論じえたであろうか。自己完結した存在。いわば鉾と楯をもった戦士に、彼は似ている。作品をつくり、いかにも個性的なやり方で自らの言説を織りなしつつ、そのうちなる精神の王国を築いてやまない。作品そのものにはあれだけの空間の広がりがあり、視線はそこをつらぬいて虚空へと消えていくことすらあるのに、その核心はあたかも見えない壁に守られているかのようだ。あるいはこういってもいいかもしれない。菅木志雄の作品はなにもかもイデアルな全体の一部、もしくはその影に過ぎず、あるいはまた彼にとって制作するとは静まりかえった水面にふと風の吹く、その波紋、それともその風にさやぐ雑木林のゆらめきのようなものだと。やや気まぐれな言い方がゆるされるなら、菅木志雄そのひとが、ひとつの半透明な空気、ないし心的なエネルギーの塊で、作品とは刻々と変化してやまないその局面のひとつにすぎないともいえるだろう。菅木志雄 - 跳躍について 1992.11.7 」 本江邦夫氏
哥座は、箱物としての概念の住処に安住せず、ことばを翼に、概念とその内包する意味という構造を越えて、たまきはる内なるおもひを天翔け、見ることや概念演算による思考形態に代わり得るわたくしたちの「見ゆ」というあり方、「おもひ」のありかたの独自幾何を深めゆきたい。二0一一年五月七日深夜
「お知らせ」
いままで「物」と「言」との両局面にわたり、哥座は列島地軸の検出作業を続けてきたが予想より早く「物・言」が現成する際の構造の核心部を晃かとすることができた。これまで「物」と「言」両面にわたる統一理論の欠如というものが、列島の明治以降に限ってみても産官学のナリスマシ族の跋扈を許す一因となってきたのはあきらかだ。たとえば自然科学にたいする列島の独自批判原理の欠如した科学者には原子力という高密度の「物」のエネルギーのコントロールは現実的に無理である。社会科学や遺伝子工学など先端医学の各分野においてもしかり。複合化した巨大技術の現実は国際政治や経済と複雑に絡み合っており、それに対応できる「物」と「言」とに通じる批判原理がなければ自然・社会諸科学のこれら巨大テクノロジーはめいめいが専門領域で暴走をはじめるだろう。それを見透かしたかのように分割統治を得意とする一部権力者たちは本来社会資本であるべきものを民意を無視して巨大利権を貪るための欲望装置と化してしまうはづだ。事実、原子力関連の各科学者と技術者はみづから関わったプロジェクトにおいて、それがどれほどひどい結果をもたらしたとしても、それはほかのジャンルの問題であり、あるいは悪用されたものである。だからしてそこには自身はいっさい関係が無く、みづからの立場は聖域であるといい抜けしてきた。311はその行き着いたさきの悲劇のひとつを象徴している。
他国の言語精神がうみだす概念、論理を普遍的な規範だと称して、それを主たる解釈コードに自国の文化を解釈してきたのが日本学問である。それははじめから自らの論理をもたない欠陥品であった。儒学・天竺学からは儒学神道にはじまる各種政治理論がうみだされ、また明治以降は欧米アカデミズムに準拠した日本アカデミズムというまがい物が大量の秘儀的学術用語とともに生産されてきた。日本のソフィストともいうべき彼等は、あらゆるジャンルでみずから伸びようとする芽まで摘んでしまい、時代をミスリードしてきた。それは所詮国家統治ツールとして輸入されてきた学問の植民地国家根性まるだしの出自がもっていた卑しさからである。
いまも現代美術批評や国文学論文においてさへ、万葉集や古事記そして現代美術作品までもを、現代思想概念を解釈コードにしたテキストとして読み出し、そこに「反復され再生される悪しき日本」を見てとる傾向が強い。しかし、こうした秘儀的学術の解釈学に陥って自縄自縛に陥っているのは、万葉集や古事記や現代美術作品そのものに起因したものではない。言語位相がまったく異なるにもかかわらず、その大陸系言語概念を規範にしようとするアカデミズム自身の無自覚で牽強付会な傲慢さに問題がある。自らがまさしく反復され再生される仮象としての自己に他ならないのである。すなわちいまの時代になってさえ現代儒学である立場を脱っしきれない日本のアカデミズムは旧来儒学よりもはるかに保守的て罪深いといへる。それこそがまさしく宣長が学問のはじめにあたって排除しようとした漢意といわれるものの正体なのである・・・。欧米思想概念を解釈コードに秘儀教説を解釈学的に学術用語とし導きだす傾向は、つまり洋意はITというVRを本質とする観念知のツールを援用しながら依然にも増して強固になっているのが現状である。
ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂修道院の「最後の晩餐」の透視図法を見よ。中央のイエスが神として復活し再現描写されているのは再現性に芸術・科学の本質をおいた彼らの精神座標系にとって必然の出来事である。時空座標の収束するゼロ点に復活したイエスの再現された世界における罪と赦しの心理操作の恐怖はここで美と自由と人間開放と言い換えられ、それを神が保障するというかたちでヨーロッパの人間主義は起こった。また、近代に入ってからその美と科学の価値を規範として輸入し移植してきたのが近代日本である。いまこそダ・ヴィンチのもうひとつの傑作あの「モナリザ」の微笑みは列島言語精神とは対称的な再現された死のシンボルであり、そこに底なしのニヒリズムが隠されて在るということに気がつかなくてはならない。わたくしたち列島言語精神は「物」「言」を主客分離未然の場において、あるがままに輝かせることができる。大陸系の主要言語には見当たらないはたらきかたをする。外部を説明したり、概念規定をしたり、象徴せず、描写しないことをてにをはといふ「辞」のはたらきに添ひながら自覚的に深化させることでそれが可能となってくる。一見単純で幼稚に見えるこの列島言語の構造とその逆関節技めいたその不可思議なはたらき方については、人麻呂以来、すぐれた賢人がいくどとなく指摘してきたことではある。
「最後の晩餐 修復の景」 撮影:哥座
いったん哥座は列島言語精神のすべての秘密をバーション三、〇三に隈なく反映させることに成功した。しかし、すべてをオモテへ顕わにすると「物・言」に聴き入る愉しみが無くなるばかりか「物」の輝きが失せてしまう。*)そこで、旧バージョンへと差し戻した。ただし、オフラインでは新バージョンの一部をテキスト化し、それをこゑや物の具体的なパフォーマンスとして作品やライブ討議へ活かしていく。質問等は哥座美学研究所へMAIL
二0一二年十二月十一日現在
いつか、W3C勧告案程度であった表記規制やコードが、ついに、世界統一憲法として公布され、 現実のあなたは、ニセモノとなり、ハイパー情報のなかで流通しているバーチャルのあなたがホンモノとされる。といった日が来るかも知れない。 いや、実はそうした時代は一部、そこまで来てしまっている。なにごとも、サーバー情報に照らし合はされて、相対化され、 リアルな発言力は、無くなりつつある今日。いまにも増して高度AIにサポートされた情報社会では 、タグづけできない情報の存在度はゼロに等しく、バーチャルの光だけがいや増していくこととなるだろう。
哥座(うたくら)は、オフラインの実作を基本としている。いまの統一情報基準の基では、情報化しにくい「にほひ」・「俤」などローカルな属性概念に焦点を当て、わたくしたち固有の身体軸にもとづいた、身近の先験的韻文空間を探険する。しかし、有無を言わさない「情報革新技術」。この進化と変化速度にそいながら、リアルで獲得した古くて新しい視座を武器に、また、オンライン上でも「情報」の意味を不断に問い直し、リアルタイムに情報技術の根底にある思想を分析していきたい。
やがて、ローカルな属性概念や、匠の技や、なにげな感覚もシナプスレベルで情報化されるだろう。すべて、この世に存在しているもので情報となりえないものはないからだ。しかし、この一点、バーチャルとリアル、言い換えれば情報と具体、あるいは知と存在。この根本関係こそが古代のギリシャでも印度でも中国でも核心テーマであったように、今後も、大袈裟に言えばふたたび文明の最重要課題となる日がやってくるであろう。哥座(うたくら)は、この情報と具体の関係を日本の無文字時代に遡って(実はわたくしたちの心性は、いまだに無文字時代の只中を活きているのだが、そのことを証明しつつ)その無文字時代空間を手懸りに、印欧中の概念に拠らず、固有の文脈、身体を軸にして、いまを野性的に解明してかかるつもりだ。その際、アバンギャルドに対抗するように六十年代に関西ではじまり、モノ派、土方巽、などの流れにつながっていくことになった名前もそのものズバリ「具体運動」。そこへもういちど、光をあててみたい。ポストモダンの代表的運動として、世界へ大きな影響を与えながら、いま情報社会のなかに、ふたたび飲み込まれてしまったように見える「具体運動」。そして「モノ派」から現在への流れ。その曲折の断層面に、問題解明のよいきっかけが発見できるだろうと予感している。たぶん印・中・朝文化を受容した後の飛鳥から平安にかけても、以下は大幅改訂作業中
2013年12月 - 2015年春完了予定。
附 記
ふだんからなじみ深い裏手の山や前浜の海など、身近の自然やジブンの身体は、すでに了解済みの「空間」のなかに、疑うこともなく自明に存在している。
「哥座(うたくら)」では、「こと」「もの」が生成流転しているこの無意識空間を再検証し、未来への視座を見つけていきたい。その方法として先づ、わたくしたち固有の考え方、とりわけ、ことばに内在している固有のロゴスに触れていく。とくに詩歌の韻文に働くチカラを分析、検証していく。韻文空間の座標軸確定に際しては、わたくしたち固有の文体からの発現を待つ意味で、印・欧・中の概念使用はできるだけ控え、いまも普段に使用している古くからの「ことば」や古典の「ことば」自体が本来もっている意味や関係性を最大の手掛りにしていく。万葉集はじめ、多くの歌仙の哥、俳諧、詩、J-POPまでのこれら「韻文」は、ながい時の熟成により、先人より受け継いできた身体空間や歴史、自然空間へと昇華され、「わたくしたち」の空間システムの原型となり、具体的な血肉となっている。あるいは逆に、わたくしたち自身をさえ紡ぎだしてくれている。
わたくしたちの国の国会図書館ロビーには、プラトンのアカデメイアの「幾何学を学ばざるものこの門をくぐるべからず」という箴言がギリシャ語で堂々かかげられている。いまのグローバル時代にあってはもちろんのこと、どんな時代にあっても、当該の歴代覇権国家が主導する学問なり技術の導入は必要である。しかし、ギリシャ語や中国語、英語、数学語、AI言語で育ってきたわけではない者にとっては、外国言語精神文化を学ぶまえに、母語にはたらく法の体得を先にしたいと考えるのは自然の感情であるはずだ。使い慣れた母語の法の自得とそれにもとづいた科学的独自方法論の確立なくして、世界に通用する創造的ななにかができるというのであろうか。すべての深い思惟と、行為の根拠というものは、どの時代、どの言語文化圏のひとびとにあっても、自らの言語精神に基づかないものはないであろう。まして、なによりもわたくしたちの母語には、人麻呂が誇り高く暗示する「言挙げせぬ国のメタフィジカと、フィジカ」のとんでもない鉱脈が眠っているのだ。他言語精神文化に由来する近代自然科学や、人文社会科学はすべて、こうした母語の力学を自覚し、それを支点にし得たとき、はじめてそこで、わたくしたちにとっての有意味性もまた、あたらしくうまれてくるものと思われる。詩経に当たるべき和歌、俳諧は、一首一句がそのままのかたちで活きた文法であり、具体的な座標である。即ち、そこへはたらく法の自得とそこで独自視座を培うことこそ、アカデメイアの幾何に代へ、わたくしたちが基本とすべき学びなのではなかろうか。
「和歌、俳諧にはたらく言葉の法を学ば去る者、この門に入るべからず」
哥座(うたくら) 美学研究所
WWWの果たてを限りとする無限大の智慧へ
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